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山下 浩志 @kiiroiheyan · Facebook 2015年11月18日
17日、職場すすめる会&わらじの会の15人で、共に働く場見学交流ー秋のワンデイツアー。... http://fb.me/4wVHpyij6
山下 浩志 @kiiroiheyan · Facebook 2015年11月18日(木)
和紙に描かれたアートの宝庫 | いただいた来年のカレンダー |
新しく建てられたところが丁合の工場に | 左奥が脇田さん 棚に和紙アート作品がぎっしり |
生協のチラシの山 | 丁合機 すごい! |
和紙を漉く作業を説明する脇田さん | 和紙を張った壁 |
前庭で行われている石けんを切る作業を見学 |
左端の脇田さんに参加者が次々と質問 | 結の会を辞した後、八王子ワークセンターの運営する障害者の働く場・喫茶クリエイトで昼食する一行 |
品ぞろえ豊富なあしたやの前で長尾さんのお話を聞く | 共に働く思いを熱く語る長尾さん |
橋本画伯に手話で語りかけたレジの店員さん | 面白そうな本が安い! あしたやみどり |
あしたやみどりの奥でさをりを織る | どんぐりパンも障害者の働く場 ごちゃごちゃのパワーで支えられる商店街 |
すくらんぶるるーむって何か説明してほしいんですって | あしやたみどりの隣の不思議空間、多摩ニュータウンまちづくり専門家会議理事の松島さん |
<< 作成日時 : 2015/06/30 00:47 >>
http://yellow-room.at.webry.info/201506/article_7.html
◇2015年6月23日〔火〕、山梨県北杜市
廃校になった北杜市立日野春小学校(写真)を借り受け、そこに多機能型事業所のはら樂団を開所するとともに、地域の諸団体とコラボして「日野春學舎構想」を立ち上げてきた、八ヶ岳名水会の活動の一端をかけ足で見させてもらった。 廃校と聞いたとき、日野のNPO法人やまぼうしがやはり廃校になった平山台小学校で、元の給食設備を活かしたレストランや流木等を用いた工房を就労継続B型で開いており、他の教室で高齢者団体等が活動していたことを想い起した。 ワーカーズコープ主催の八ヶ岳名水会見学ツアーに便乗させてもらった。上の写真は、日野春小学校で、八ヶ岳名水会の仁田坂さんの説明を聞く職場参加をすすめる会及びわらじの会の面々。 便乗といっても、ワーカーズコープ関係者が10数人(上の写真)のところに、こちらのほうが20名余り。 車イスユーザーが4名いるため、リフトカー3台で出かけた。当方はこのくらいの人数でこれまでもあちこちへ見学交流デイツアーを行っているが、事前にしっかり参加者数をお伝えしてなかったため、昼食の用意や見学に際し、名水会にもワーカーズにも調整でご苦労をおかけしてしまった。すみません。 上の画像は、八ヶ岳名水会の情報誌「虹いろ」NO11に載っていた「日野春學舎案内図」(旧日野春小学校の校舎内見取り図)。「元は学校であったことを遺産として、皆で学びあいお互いに成長発展できる場所にできたらという思いを込めて『學舎(ガクシャ)=まなびや』と付けさせていただきました。」と書かれている。 この日は私たちの到着が遅れ、時間が押していたため、1階で活動している多機能型事業所「のはら樂団」の活動だけを見学させて頂いた。 上の写真は、アートの部屋。模造紙に迫力のある絵を水彩で描いていた青年(奥)。手前の女性は、この後、木琴を奏でていた。彼女は、音感がよく、ビートルズの曲を聴いただけで、楽器で演奏できると聞いたので、本人に確認した。彼女はうなずきつつ、「誰かが聴いていると、緊張してうまく弾けなくなっちゃう。」と言う。一人で奏でるのが好きなのだそうだ。 その彼女は、白州のグループホーム大坊から車で来ているという。グループホームでは自分がいちばん若くて、81歳の入居者もいるとか。このアートの部屋は、パン作りなどの仕事の休み時間に来るのだそうだ。 その隣の部屋は食堂で、案内図には「みんなでごはんをたべるところ」とある。年配の男女がゆったりとしていた。やはり作業を終えて、昼食まで一休みしている感じ。男性と話した。長坂のグループホームから、やはり車で通ってきているという。「グループホームはどうですか?」 「………」 「住み心地いいですか?」 「………」 「まあまあですか?」 「まあまあだね」 ニヤッと笑う。 時間がなく、そんなやりとりしかできなかった。 廊下の壁に貼ってあった通所者一人一人の週間スケジュール。わらじの会のくらしセンターべしみや地域活動支援センターパタパタでもおなじみ。必ずしも固定した班行動や一斉行動ではなく、個々人がさまざまな活動に交差して関わるため、こうしたスケジュール表が必要になる。 あわただしく1階だけ見て回った。ちなみに、案内図に書かれているように、2階は「地域との共有スペース」で、「地域の豊かな環境を守る」、「社会的包摂を目指して地域づくり」、「人の交流と学びの場」といったコンセプトでコラボレーションを模索している地域の諸団体が事務所や展示室、会議室等として拠点を構えているそうだ。 校舎を出ようとしたら、出入り口に近い職員室でパンの販売が行われていたので、並んで購入。さきほど校舎のいちばん奥の食品加工室でもパンづくりの最中だったが、ここで売っていたのはなんと別団体のNPO法人八峰会の人々だった。「精神の作業所なんです。」と言っていた。八ヶ岳名水会の職員の一人が「おいしいですよ。百円で手頃なんです。」と言う。たしかに、同じパンでもそれぞれ持ち味が違うはず。こんな風に懐をひらいてつきあえるのはいいなと感じた。 校舎を出てから、あらためて玄関を眺める。八ヶ岳名水会がこの施設を管理していると書かれている。運動場や体育館もある広いスペース。 忠魂碑ー侵略戦争に駆り出された村の歴史も刻む小学校は、人々の暮しの歴史遺産。 小学校の前にあるそば屋「豆の花」で、ワーカーズコープのご一行は昼食。ここも八ヶ岳名水会の施設。豆腐工房、パン工房と一体。 眼下に広がる農場を含む多機能型事業所「春の陽」の就労継続Bの部門の活動として、「豆の花」もある。「春の陽」については、共同連のセミナーで、施設外就労をたくさんやっていることやTSUENOWAという人手不足の農家に働きに行く仕組みについて、お聞きしている。が、今日は眺めるだけにとどめる。この「春の陽」のすぐ近くに日野春小学校があったことから、日野春學舎構想が生まれ、「春の陽」から「のはら樂団」が新たに生まれ学校に居を置くことになる。 職場参加をすすめる会・わらじの会一行は、リフト車3台を連ねて高原を上がってゆく。そして、小海線甲斐小泉駅近くの「手打ちほうとう・楽一」で昼食。ここも八ヶ岳名水会の施設と聞いていたが、おばさんたちが主で、初めはどんな施設なのか、よくわからなかった。食事ができるまで時間があったので、周りを散歩することにした。 おばさんに聞くと、すぐ下に八ヶ岳名水会の発足時からの入所施設「星の里」があるという。 近くの甲斐小泉駅駅は海抜1040m。このあたりもかっては開拓村だったのだろうか。定員50名の星の里が建てられたのは21年前という。すぐ近くに1970年開所の特別養護老人ホーム・仁生園がある。 八ヶ岳名水会の活動拠点群は、現在、午前中に訪ねた日野春小学校、春の陽農場等の海抜700m弱のエリアと、県地域定着支援センターや市委託相談支援事業、中ポツセンターを含む障がい者総合相談支援室ふぁーすとまっぷ等がある海抜300mの韮崎エリア、それにここ星の里を中心とする海抜1000mのエリアを中心に、八ヶ岳の広大な裾野に広がっているという。 そのひろがりの起点が、ここ星の里だったわけだ。入所施設から地域へ―なだらかな道ではなく、谷に戸惑い、藪に迷いながら切り拓いてきたであろう歴史がしのばれる。 降りて行くと、農園に抱かれた感じの施設があった。入所施設によくある塀や重く閉ざされた門は見当たらず、玄関までぶらりと行けた。そこで農作業帰りの利用者と支援員らしき人に会い、「春の陽」を見学し「楽一」に来たことを伝え、畑を見せてほしいと伝えると、笑顔で教えてくれた。 施設に隣接したこの畑の他に、少し離れた所にも畑があるという。養鶏場は100mくらいの所にあるとか。 畑の脇にあったハウスは「まきハウス」。障害のある2人と支援員1人がいた。落葉松をたくさんもらったのを少しずつこのハウスへ運び、薪にして清里のキャンプ場に納入するそうだ。 本人たちが鋸で切り束にするが、その束が細い木ばかりとか太い木ばかりとかでは商品にならないので、均質にそろえるのが支援員の重要な役割とか。これは夏場に向けての仕事で、秋になると薪ストーブ用の薪を作る。 星の里入所者の日中活動として、養鶏・畑班、薪班、里山・畑班などがあり、通所事業としてデイサービス星の里や他の活動場所で行われるふれ愛・楽一・たんぽぽ、金木星といった場があるという。 さきほどの楽一という店も、星の里のデイサービス事業の一環ということで、店内清掃や開店準備を重い障害者が担ったりしている場らしい。 楽一に戻ると食事ができていた。ただ、ほうとう(写真)は7食分とのことだったので、筆者らは「豆腐三昧定食」を注文してあった。ちょうど豆の花から、車で豆腐やおからを届けに来ていた。 小海線まで来たので、ついでに八ヶ岳横断道路まで上がり、清里の清泉寮へ寄って、ソフトクリームを食べて帰る。清泉寮から茅ヶ岳方面をを撮影する橋本画伯。 |
<< 作成日時 : 2015/02/25 00:54 >>
http://yellow-room.at.webry.info/201502/article_6.html
◇2015年02月24日(火)、八王子市・法政大学
共同連主催・東京ワーカーズ・コレクティブ協同組合/法政大学エッグドームカフェ運営協議会後援 第2回「農と食 若者 障がい者の社会的事業所」を創るセミナー
共同連主催・東京ワーカーズ・コレクティブ協同組合/法政大学エッグドームカフェ運営協議会後援 第2回「農と食 若者 障がい者の社会的事業所」を創るセミナー に行ってきた。NPO法人障害者の職場参加をすすめる会として、10名のデイツアー。他に見沼田んぼ福祉農園推進協議会の猪瀬代表やあぐりのメンバー他、さらに10名ほど埼玉から参加した。 すすめる会では、会場となった「やまぼうしスローワールドカフェ」を見て食事することが第一の目的で、第二がセミナー。 NPO法人やまぼうしへのデイツアーは、これで三回目になる。前回は廃校になった小学校につくったカフェ等を訪ねた。 やまぼうしの職場を会場にしたセミナー。とてもおしゃれに感じた。 NPO法人やまぼうしの伊藤勲理事長。2009年3月、初めてNPO法人やまぼうしへのデイツアーを行った時、当時伊藤氏がやはり理事長を務めていた社会福祉法人由木かたくりの会へも案内して頂いたことを思い出す。その「かたくりの会」の名で、2006年にまとめた「八王子市・市街化調整区域(東部・堀の内地域)でのアグリビジネスを軸とする『障害者雇用創出特区』提案書(案)」について、今日、伊藤氏が語った。 2009年にかたくりの会を訪問した時、近くで後継者がいない牧場があり、そこの牛糞を集めに行って、それをたい肥化しているという話をたしか聞いた。 今日いただいた冊子「ユギ村物語」によれば、堀之内寺沢集落という地域で、1950年代から60年代前半にかけて、他の近隣市町村では宅地化が進んだが、寺沢では若手農家たちを中心に、酪農を含む農業改革が熱く取り組まれた。彼らは1965年に都市計画決定された多摩ニュータウン建設計画に対して強く反対し、市民団体等とも連携して、一部ではあるが自分たちの農地・宅地をニュータウンから除外させることに成功した。 その中から「ユギ・ファーマーズ・クラブ」という、都市と農業の共存をめざす活動が生まれ、10年位前まで続いていたという。その構成員であった「牧場のおっさん・鈴木亨氏」の証言についても、伊藤氏が語った。土地を全面買収するニュータウンには反対だが、開発をすべて反対するわけではなく、農ある街づくりをやってゆければいい。氏の「八王子市市街化調整区域基本方針(素案)に対する意見」では、調整区域の土地を体験農園や緑豊かな福祉施設の創設に活用可能にすべきと提案している。 「ユギムラ物語」の中に、「都市にこそ、農業が必要だ」と題する鈴木亨氏の語りがあり、肩書が「NPO YUGI 代表理事」となっている。添えられた写真は若者たちによる稲刈りの情景。ページをめくると、「NPO YUGIの役割」と題する文章があり、執筆が前回さいたま市で開催したこの農福連携セミナーで出会った若者・舩木氏(株式会社フィオ代表取締役)。彼がNPO YUGIの副代表理事を務めていると知った。ちなみに、FIOのホームページは →http://fio8.com/ 多摩・八王子地域における「農ある街づくり」の歴史を今日あらためて知った。伊藤理事長は、舛添知事が、「都市農業特区」を提案していることにも注目していた。 なお、「共生の農業をめざす見沼農園の課題」を報告した見沼田んぼ福祉農園協議会・猪瀬浩平事務局長は、見沼田んぼが川口や東京を洪水から守るための遊水機能をもつため、開発→保全→保全活用という経過と運動により農園が出来た歴史を述べた。 両地域の歴史のつき合わせについて、さらに考えてゆきたいと思った。 その多摩地域における農業参入の構想について、生活クラブ生協・東京 専務理事の村上彰一氏が、今日報告していた。多摩地域の農業振興地域は耕作放棄地が多い。そこで農業生産法人を立ち上げ、若者、障害者、組員の参加で作る社会的事業所をめざしたいと。 さて、やまぼうしの前史である府中療育センター闘争から引き継がれた「施設から地域へ」の具体化として「おちかわ屋」が街に出来たのが1985年。わらじの会が障害者雇用事業所「トムテ」を開店したのが1987年。既に名古屋や滋賀、大阪、熊本などで先行していた共に働く事業所の運動が全国的に連携し、差別と闘う共同体連合(共同連の前身)が1984年に結成され、活発に動き始めていた。 自立に向ってはばたく家準備会が1983年にパタパタという店を谷中耳鼻科の前に開店して間もなく、「そよ風のように街に出よう」を創刊した大阪・りぼん社の三矢さんとたぶん八幡さんがリュックサックに本をつめてやってきた.。上の画像は、後に「そよ風」29号に載った橋本画伯のインタビュー。 それをを皮切りに、大阪から次々といろんな人がわらじの会に来た。そして、1985年、大阪で開く全障連大会では、初めて「生きる場・作業所分科会」を設けるからぜひ参加してくれと、大阪の中部解放センターやら東京の故・村田実さんやらが来てくれて、全国的な動きに関わってゆくきっかけとなった。自分たちにとっては、介助や労働が等価値であり、障害者自立をすすめる介介助者の制度をどう保障させるかということも、金をどうもうけるかということも、いまひとつピンと来ないままあちこちの会と熱く交流したことを思い出す。 全障連はそれまでの専門家・親主導の運動に対し、障害者本人とその支援者による全国の活動をつなげることが目的であり、とりわけ八木下浩一が実践した「共に学ぶ」の実践をベースに、青い芝と故楠さんらの関西障害者解放研究会、それに八木下浩一が組んで1976年に立ち上げた。1985年の大阪大会はまさにその運動の転換期であり、共に生きる健全者とどのような関係を結ぶのかがテーマとなった記念すべき年だった。 上の画像は月刊わらじ1985年10月号から。恩間新田の農家の奥から街へ出た障害者たちは、谷中耳鼻科の駐車場に建てたプレハブの前を畑にしろと、筆者ら介助者に要求し、隣家の子どもまで動員して、農業指導を行なった。先に述べた「介助や労働が等価値」とは、たとえば以下のような状況である。 「ぷれはぶのまえに, はたけができました, わたくしたちが, まんのうを もっていって, やましたさんに, いんぴでほってもらって, あんこちゃんに, まんのうでうなってもらって, やまなかさんに, じゃりをひろってもらいました ひらのさんのうちでくわをかりてきて, ひらのさんちのゆうこちゃんに, くわで さくってうねをつくってもらいました, そのはたけに, えんげんと, きゅうりと, はなと, ひらのさんちのはたけから, ひらのさんに, さつまなえをもらって, はばたくいえの, はたけに, ひらのさんに, さつまなえをういてもらいました。わたくしたちが, こやしをかってもっていって, そのこやしを, かいごうしゃに, くれてもらいました, かいごうしゃに, はたけのくさとりをやってもらいました, くさとったはたけを, やまなかさんにまんのうでうなってもらって, ひらのさんのうちから, くわをかりてきて, やまなかさんに, はたけをくわでさくってもらってうねをつくってもらって, やまなかさんに, だいこんのたねをまえてもらいました。 ……農業の専門用語がいっぱい。実演と共に、語学の勉強をおそわったよ(あんこ)」 介助者仲間である「あんこ」がコメントしているように、「まんのう」、「くわ」、「いんぴ」のちがいと、その機能としての「うなう」、「さくる」、「ほる」のちがいがまったくわからない筆者ら。世の中のことなんでも知っていると思ってたけど、こんな子どもでも知ってるようなことさえ知らないんだなと、あきれられたにちがいない。自分たちは車イスから降りられないので、代りに90度腰が曲がったばあちゃんやら、認知症が進んだかあちゃんや、統合失調症の分家の嫁さんなどを連れて来て、われわれを技術指導した(上の写真)。 街へ出始めた頃は、方言でしか語れない自分たち、長年家の奥にいて大きく変わってゆく時代から捨てられた自分たちを恥じて、ひたすら黙っていた彼女たち。しかし、一緒に街に出て、手探りで動く中で、暮しの文化の担い手として、黙っていられないと行動し出す。何も知らない筆者らのしぐさやことばに吹き出しながら。なんといっぱい笑われたことだろう。そんな風にして、一方向に偏っていた関係が、双方向的な、せめぎ合う関係に変ってゆく。 ところで、今日のセミナーでは、いろいろな収穫があったが、あらためて共に生きる健全者が重要な課題として浮上したように思う。 八ヶ岳名水会(上の写真)からは、「職員の意識改革」として課題が提起された。見沼田んぼ福祉農園の猪瀬事務局長からは、「ぼくがいちばん若いほうでは」という言葉としてふれられた。会場からは、若い職員をどう確保するかといった意味合いの問いが出されたように思う。 こうした課題について、私が思うのは、東京都多摩市の「たこの木クラブ」発行の「たこの木通信」2月号の「自立生活支援を考える会報告」で三井さよさんが書いている「『がっつり系で働ける人たちをモデルにするのではなくて、もっとダメな人がいっぱいいられる像を描けないだろうか』という話をしました。そしてそういうことを考えることは、当事者のことを考えることともつながっているのだろうということと。」という思いとつながっているなということ。 八ヶ岳名水会の話では、「豆腐をもっと出せないのか」というスーパーなどからの要求があった時に、障害者本人と一緒に説明に行くという。そこで初めて「ああそうなんだね」と理解を売るという。そういうことって、よくある。 私たちが請け負っている県立公園の花壇整備作業では、さまざまな施設から障害者3人と職員等1人とのユニットを組んで出て来る。その中には、仕事がつかめず立ち歩いている人もいる。しかし、そういう人がいることで、放っておくと人の1.5倍も働いて疲れ追い込まれてしまううつ病の人がリラックスする。調子が悪い人が、我慢せずトイレに行き、働き続けられる。県立公園の管理を請け負っている公益財団法人の担当職員は折にふれ作業現場に立ち会っているので、そうした関係の大事さをわかっている。障害者がいると職場が癒されるといったワンパターンの論理ではなく、なんだかんだごちゃごちゃとあって、その結果として仕事が遂行されるんだよね、予定調和じゃなくて、みんながぶつかりあって、その結果仕事が遂行される過程が大事なんだよねという、ハラハラ ドキドキしたであろう外部の発注者等の反応こそ大きな意味を持つ。 JA共済総合研究所の濱田主任研究員は、「地域の為に社会資本としての役割を果たすこと」、「農福連携だけでなく農福商工連携を」と語っていた。 八ヶ岳名水会の報告では、地元の養鶏業やトマト農家に3人のユニットで施設外就労に行ったり、地域の農家と連携して仕事をもらってくるTSUENOWAとの協同により、大葉の袋詰め、草取り、にんにくをばらす作業、ジャガイモの植え付け、マルチから伸びた芽を出す作業、種取り、マルチのはがし、大豆の選別といった仕事に出てゆく。あるいは、自前の大豆だけでは年間を通しての豆腐づくりができないから、地域の農家の産物を利用する。組織が連携するというだけではなく、地域のあちこちに障害者たちと職員が働きに出かけてゆくことを通して、さまざまな外部の人々の反応を通して、ここに一緒にいる自分たちの存在を日々実感させられているのではないか。 筆者の経験では、入所施設の利用者が職場体験した時、支援者に職場の主任の名を教えられ、始めと終わりに挨拶するよう教えられた。その時初めて「人には名前があるんだ」と知ったらしい。施設へ帰ってから、職員らの名をつぎつぎと呼ぶようになったので、職員としては喜ばしい反面たいへんでもあるというケースがある。他者の関りの中で人は変わってゆく。 福祉制度が乏しい生活困窮者等の「働く」とどうつながるかといった質問もあった。そのことも、上記とつながるのではないか。「がっつり系」の支援者、共働者、職員を期待する、そうした発想自体問い直してゆくことが必要と思う。「青い鳥」を求める発想からあらためて仕切り直すときではないか。 |