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障害のある人もない人も共に生きる職場・地域を NPO障害者の職場参加をすすめる会

電話でのお問い合わせは048-964-1819

〒344-0023 越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101

ご用命は“NPO障害者の職場参加をすすめる会”へ。

◇長期不況で地域の困窮や孤立が深まっている現状に対し、雇用と福祉の狭間の身近な仕事おこしを目的に、福祉施設利用者や在宅の障害者の社会参加を兼ねて、本人たちによる定期的な事業所訪問や困窮者等をまじえたグループ・アルバイトを実施し、その経過をホームページやシンポジウム、コミュニティ・カフェ等で発信し、先進地の見学・交流も行って、共に働くすそ野拡大をする事業を推進。

information新着情報

◆2018年9月07日
▽2018年8月08日(水)、「共に生きる介護とは――門間愛さん(ケアシステムわら細工事務局長))をUP。
◆2018年8月05日
▽2018年8月01日(水)、「オートバイひとり旅」:松尾清晴さん(元JR社員)をUP。
◆2018年8月02日
▽2018年7月25日(水)、「迷惑かけて街びらき・橋本克己さん」をUP。
◆2018年7月24日
▽2018年7月18日(水)、「介護者になったわけ・佐藤栄子さん」をUP。
◆2018年7月24日
▽2018年7月11日(水)、「宇宙の仕事って、なんだ・北倉和久さん」をUP。
◆2018年7月12日
▽2018年7月04日(水)、「SHUがいる街で」をUP。
◆2018年7月11日
▽2018年6月27日(水)、「地域ぐらしの手帳・廣井みえ子さん」をUP。
◆2018年6月30日
▽2018年6月20日(水)、「埼玉の縁と障害学・増田洋介さん」をUP。
◆2018年6月22日
▽2018年6月13日(水)、「労働人生から得たもの――水島茂治さん」をUP。
◆2018年6月22日
▽2018年6月6日(水)、「自分とのつきあいかた――橋本直子さん(若年性パーキンソン当事者)」をUP。
◆2018年6月02日
▽2018年5月30日(水)、「「住まいを共にするとは」わらじの会の生活ホーム・もんてん、オエヴィス世話人若林佳誉子さんと入居者の柴田さん、小川さん、会沢さん」をUP。
◆2018年6月02日
▽2018年5月23日(水)、「高瀬勇さん「精神医療ってなんだ」をUP。
◆2018年5月18日
▽2018年5月16日(水)、「水谷 淳子さん 「東大『闘争」の前と後」」をfacebookにUP。
◆2018年5月09日
▽2018年5月09日(水)、「土田 良幸さん「働く私からの平成史」をfacebookにUP。
◆2018年4月25日
▽2018年2月21日(水)、埼玉トヨペット(株)を退職された渡辺新一さんがゲスト。
◆2018年3月04日
▽2018年2月14日(水)、「黒田流「共生の技法」―矛盾を友として」をブログにUP。
◆2018年2月21日
▽2018年2月7日(水)、「なんでもやってくることで形になった―巽さん親子のまちびらき」をブログにUP。
◆2018年2月19日
▽2018年1月31日(水)、「娘と共に街で――教育・福祉問い続け生きてきた小野さんのルーツ」をブログにUP。
◆2018年2月13日 +14日
▽2018年1月24日(水)、「橋本ミツエさん。盲ろう下肢マヒの橋本克己画伯のお母さん。」をfacebookにUP。 “老障介護を生き抜くしぶとさのルーツ―ミツエさん「織子の青春」”をブログにUP。
◆2018年2月04日
▽2018年1月17日(水)、「労働差別と闘い解雇された30数年前――正木さんの語る共生のヒント」をブログにUP。
◆2018年1月31日
▽2018年1月8日(水)、「ブラック労働でトヨタ支え無資格スーパー介助者に転身の大坂さん」をブログにUP。
◆2018年1月30日
▽12月20日(水)、《私の職場参加前史》、当会代表理事・山﨑泰子さん、▽12月13日(水)、《職場参加との出会い》、元就労支援センター所長 沖山稚子さんのお話。。
◆2018年1月30日
「すいごごCafé」のページをリニューアル。。
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毎週水曜日午後に開催! 9月5日(水)~10月17日(水)まで



[2017年4月5日(水)から12月06日(水)]までの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。




   

第2期すいごごカフェ&ゲストトーク!
 


すいごごカフェ 初秋のラインナップ!


 9月26日だけはせんげん台の就労移行支援事業所 048-971-8038、その他は東越谷ハロワ向かいの世一緒 048-964-1819 で。初めての参加の方は、お電話を。

9月5日(水)13:30~15:00
佐藤 秀一さん ( 世一緒障害者スタッフ)
「友達と職場の記憶」
小学5年生で脳腫瘍になり入院先で友達ができた。中学卒業後、迷っていた時もその友達が同じ職場に誘ってくれた。リストラや脳梗塞を経た今もつきあっている。

12日(水)13:30~15:00
山﨑 昭二さん (人形師、読書会主宰)
「 越谷の市民文化を編む」
越谷に生まれ育ち、中学卒業と同時に人形師の道に入り幻の江戸雛復活など伝統工芸家の顔のほかに、劇作家、詩人、読書会主宰などの顔。その軌跡をたどる。

19日(水)13:30~15:00 ※
齊藤 一枝さん (ケアマネージャー)
「福祉という働き方を問う」
東越谷に住み、自宅近くの葛西用水で平和を願い、8月に灯ろう流しを主催して今年で12回目。灯ろうに託す思いと憲法9条の会の活動について。
 ※この日は12:00から仕事おこし懇談会inこしがやの協力を得て、Lunch Cafe どっこいしょ。キッチンとまとのカレー(コーヒー付き)が300円で。お早めにご予約を。

26日(水)13:30~15:00
佐原 猛さん (精神障害の当事者)於・千間台「世一緒」 
 「 古着屋を営む」
第4水曜日のすいごごカフェは、せんげん台の就労移行支援「世一緒」で。佐原さんはインターネットで古着屋を営む日々を。

10月3日(水)13:30~15:00
直井 利雪さん (世一緒サポーター)
「非正規労働の現場から」
世一緒サポーターを週2日務める以外は、ある非正規労働の現場に。公共性が強く、かっては国の事業として行われていた仕事だが、いまの現実は。

10日(水)13:30~15:00
山田 裕子さん (越谷市民ネットワーク)
  「空き家が子ども食堂」
空き家をNPOや地元企業の支援を得て改修し、地域サロン「ぽらむの家」に、その1階で毎週月曜日「越ヶ谷こどもかふぇ食堂」を開く。その経緯と課題は。

17日(水)13:30~15:00 ※
増田 由紀子さん (ヘルパー、障害者の親)。「介助のある暮らし」―介助を職業として生きることと、介助を必要とする障害者の親として共に生きることと、提供者であり利用者でもある立場から見えてくる地域のいま。
※この日は12:00から仕事おこし懇談会inこしがやの協力を得て、Lunch Cafe どっこいしょ。キッチンとまとのカレー(コーヒー付き)が300円で。お早めにご予約を。

 
  


◇(山下浩志のfacebook・ブログより)


◆2018年8月の“すいごごCafe”

共に生きる介護とは」――[2018年8月08日(水)の模様]。
 
●門間愛さん(ケアシステムわら細工事務局長)

 8月8日のすいごごカフェ、ゲストトークの報告が遅れていたので、とりあえず本人・門間愛さん(ケアシステムわら細工事務局長)が当日配布したレジュメを以下に紹介して報告に代える。
 わらじの会に出会うまでのプロセスを読むと、分け隔てられてゆく以外の道はなかったように綴られている。高等部卒業後の進路を考えたとき、初めて流されることに抗い始める。
 分け隔てられて生きてきた同士が、かんちがいしながら出会い、食い違いながら一緒に動く…当日の質疑応答では、そんなドラマが幕の向こうで展開されているような印象を受けた。次回にさらに期待。(写真撮影:世一緒サポーター・直井さん)

    

 門間愛  プロフィール
 60.9.25埼玉県大宮市(現さいたま市)で生れる。障害名:二分脊椎。生まれてすぐに小児医療センターに運ばれ、そのまま手術を受ける。退院後は地元の保育園に通う。2年くらい通った。小学校は自宅近くにあったが、そこはバリアフリーではなかったので、養護学校(現・特別支援学校)に通うことになった。5年間通い、家庭の事情で施設に入所することになり、施設内に訪問学級があったので、そこで勉強していた。私が中3になろうとしたとき年に訪問学級に通う生徒がいなくなったため、熊谷養護学校(本校)に通うようになった。中2~高3まで行った。
 高校の頃進路に悩んでいて、ずっと施設にいるのは嫌だったので、施設の職員に相談をして、何か所か見学に行かせてもらえることになり、」そこでわらじの会と出会った。
 それを進路の先生と相談をして、そこで実習したいと伝え、くらしセンターべしみでさせてもらえることになった。施設から越谷まで通うのは厳しかったので、生活ホームもんてんがあったので宿泊体験ということで、一室借りて泊まりながら実習をしていた。
 卒業後は上尾の県立リハビリテーションセンターへ、車イスの関係もあり、若年者プログラムという訓練を一年間やっていた。県リハに入所中もわらじに出入りする機会があり、1ケ月に一回のペースで
空き室を待ちながら、日中の活動に参加させてもらっていた、もんてんにも入居前提で2泊3日という感じで泊まらせてもらっていた。介助はわらじで介助派遣をやっているので、そこから派遣してもらっていた。
 入居後は日中はべしみに通所になり、当時は販売などに行っていた。わらじに入って1年後くらいに「普通の学校に行ってみたい」と私が言ったことから、定時制の高校に4年間行った。その後は就職もした。専門学校の事務だった。でも、3ケ月で辞めてしまった。辞めてからは、当事者が職場開拓をする事務所の事務補助の手伝いということで声をかけてもらった。
 入居当初は介助者とのやり取りがうまくできないで、けんかをしたりいろいろあった。現在は、べしみに通所しながら、介助派遣事業所の事務局長や学校問題の集会や他の当事者のたくさんの会議などに参加している。
 いずれは生活ホームを出て一人暮らしをしたいと思っている。

 △(クリックするとfacebookのページへ)
[発信日時 :2018年09月06日(金)、PM11.30]

 
 



オートバイひとり旅」――[2018年8月01日(水)の模様]。
 
●松尾清晴さん(元JR社員)

 8月1日、世一緒で開かれたすいごごカフェのゲストは、松尾清晴さん。元JR社員で武蔵野線南越谷駅で働いていた時に樋上さんと出会う。樋上さんによれば、「南越谷の駅員の中で、1人だけ手話で話しかけてきた人。日本一変わった駅員という印象だった。」という。
 57歳で退職後、「世界の果てを見てみたい」とオートバイひとり旅を17年間。現在74歳。
 「笑われて・笑わせて、道に迷い・親切に泣き・走った」地球9周―130ヶ国・39万キロ と書かれたスライドを映しながら語り始める。
 松尾さんが「見慣れない地図だろうけど」と言いながら映す世界地図は、左端にも右端にも南北のアメリカ大陸が描かれている。ブラジルで「アフリカから来た」という人に会った時、「えっ⁉ そんな遠くから?」と思ってしまった。でもほんとは隣の大陸。日本の世界地図では世界がつかめないと語る。たしかにそうだ。朝鮮、中国との関係も、ふつうの日本地図ではイメージできない。日本海を真ん中にした地図を見れば、国レベルとは異なる人の往来や物の交換がはるか昔からひんぱんに行われただろうとわかる。

 

 「オートバイひとり旅」というとかっこよく響くが、1500ccのオートバイに450㌔の荷物を積んで走り、何十回も倒れたが絶対一人では起こせない。その都度現地の人に手伝ってもらった、どこの国でも見知らぬ者に親切にしてくれたという。
 ひとり旅を始めた2001年9月、ケネディ空港で1週間足止めを食った。9.11の現場まで歩いて行った。松尾さんの旅は9.11から始まる。その時は北の果てをめざしアラスカを走っていた時、キャンピングカーに倒され、肋骨10本折り、肺に刺さって、ヘリコプターで病院に運ばれ緊急手術したが、10日間で退院させられた。費用640万円だったが保険から支払われた。
 オランダではビスケット強盗にあった。話しかけてきた人が食べていたビスケットを一つくれて食べたら眠ってしまい、気づいたら病院のベッドの上だった。マリファナ入りだった。現地ではマリファナは合法。1万数千円盗られた。
 行く前に、「事故ったら」、「強盗にあったら」、「ガス欠になったら」と考え始めると眠れない。いくら考えても正解はない。その時に対応するしかないと思った。結果的には、それがよかった。
 サハラ砂漠では黄砂の中、道が消えた。地雷に気を付けろと言われていたことを思い出し、恐怖にとらわれた。通りがかりのトラックの後をついて、ようやく脱出した。砂嵐に見舞われた時は、今日だけは生きて帰るぞと思って走った。黄砂はピンク色。ある時、青空が見えた。うれしさはなかった。両目をやられていた(白内障)。帰ってきて手術した。先日は緑内障の手術もやり、もうオートバイは難しい。
 言葉はどこに行っても、日本語、佐賀・嬉野弁で通した。英語はできない。それでなんとなく通じた。「あんた、なんばしよっとね」でなんとなくわかったんだね。「おれにわかる言葉で話してよ」とか。からだから出る言葉は、相手にも伝わるんじゃないかね。正確にきれいな英語を話す人がいても、現地に人に通じなかったら言葉じゃない。「コケコッコー」でも通じるんだから、気持ちをどう伝えるか、どう受け取るか。言葉じゃないような気がするね。
 ビザ申請の時も、書いてある文字が読めないので、名前以外はひらがなで「わかりません」とか書いておいたら、それで発行された。レストランでもメニューを見てもわからないので、「コケコッコウ」とか「メヘヘーン」、「モウー」とか鳴いて見せるとだいたい伝わる。少し足りない人が来たと思うと、向こうの人が心をひらいてくれる。画伯のヴエヴェーと等価ではないか。
 お金は、現地のATMで引き出せるカードを持っている。でもトルクメニスタンではATMがなく、2000㌔離れたアゼルバイジャンまで3泊4日かけて走った。その国で残った金をすべて両替して次の国で使う。食べ物は現地の物を食べるしかない。ピラニアの刺身やこうもりも食べた。泊まるところは行きあたりばったりで、持参のテントや安いユースホステルなど。
 その国の人を信用しないと、つぎの国には進めない。やばいなあと思った人でも、人間生まれた時はみんなかわいい赤ちゃんだったんだし、もともと盗むとかかっぱらうとかする人間じゃなかったはずだと思って行動した。たとえその人が泥棒だったとしても、その人に荷物を見ておいてもらわないとトイレも行けない。人から頼まれると、その人は責任を果たす。それまでの人生で、その人は人から頼まれた経験がなかったんじゃないかと思う。知らんぷりして行ってしまう人もいるが、それはいつの時も多かれ少なかれあるから、恨むことはしない。相手の価値観を問う余裕はない。まさに障害者たちが家の奥から街に出て行った当時と重なる。
 眠っていても目的地に着く旅行者とちがって、オートバイの旅は全身を使う。東南アジアでどの国でも国境を通過できず、オートバイに乗らずバックパッカーになっった時は、あの充実感がなかった。常に信号を見たり、ガソリンを入れたり、全身をフルに使う旅とのちがいがわかった。現地の人たちのぬくもりは、こうした旅でなければ伝わらないと思う。
 松尾さんの話を聞いていて、これは橋本画伯にも通じるし、昔、奄美大島に父と母が最初で最後の旅をした時のことにも通じるなあと思った。
 質疑応答でわかったのだが、松尾さんはかつて専務車掌をやっており、国労の役員をしていたそうだ。それでJRに移行する際に、雑務をする仕事に回され、毎日毎日ちがった職場を回っていた。その時にたまたま南越谷の駅で車いすの人が降りるというので、自分が対応することになったそうだ。樋上さんのほうは、別の駅員とトラブルになることが多く、南越谷駅に着く前戦闘モードに入っていたら、その駅員ではなく松尾さんが「お帰りなさい」と声をかけてくれたので、思わず目頭が熱くなったという。それが出会いだった。(写真撮影はサポーターの直井さん)


[発信日時 :2018年08月04日(金)、PM08.30]

https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1726508177417815

 
 






◆2018年7月の“すいごごCafe”




迷惑かけて街びらき」――[2018年7月25日(水)の模様]。
 
●橋本克己さん(盲ろう下半身マヒの怪人)

 7月25日のすいごごカフェは、先先々月、先月に続き、せんげん台の就労移行支援事業所「世一緒」でやれるかなと思っていたが、8月の第4週になったので、急遽いつもの東越谷の職場参加ビューロー・世一緒で「ピンチヒッター」として、橋本克己画伯にゲストトークをお願いすることに。…ということは、私との漫才にほかならない。タイトルは「迷惑かけて街びらき」とした。
 お客はいつもの世一緒障害者スタッフやサポーターにプラスアルファ。彼らにとって、画伯はすいごごカフェの途中で5分間ほどの独自の手話講座をしてくれる存在としては身近なのだが、画伯の半生、特に「県道に車いすのあんちゃん現る! 各車迂回願います」とタクシー会社が無線連絡したほどの「無名の有名人」であったことはまったく知らない。


 もっとも、画伯は後ろに車が連なっている様子は視野が狭いから見えないし、クラクションや怒鳴り声も聴こえないから、全く迷惑をかけたとは思っていない。昼間渋滞に巻き込まれたトラックの運転手が深夜通りがかり画伯に蹴りを入れたことについても、こんな不条理が突然降りかかることがあるのが世間なんだと受け止めている。その苦難に立ち向かいながら今日も生きていることを絵日記に描いたらみんなが驚き、喜ぶので、痛いけれどいいネタができたとばかり、毎月の月刊わらじに連載してきたのだ。
 画伯は地元小学校はもちろん、聾学校からも肢体不自由養護学校からも断られ、就学免除で子どもたちの世界から家の奥に隔離されて19歳まで生きてきた。就学前の写真はあどけない笑顔が多いが、思春期になるに従って表情が硬くなる。そして19歳の秋に運命的な出会いがあり、街に出始めた。
 その後のスライドを映しながら、私が画伯に短く説明すると、画伯が記憶をよみがえらせて身ぶり表情豊かに語り出す。出始めてまもなく、ある教員の仲介で、市内の小学校の4年生のクラスに1週間体験入学した時、お別れ会に生徒たちが話し合って画伯と「這い這い競争」をやったこと、その時の「同級生」たちがその後数年間、わらじの会のバザーにおおぜいで参加したことなども。
 19歳まで画伯は字に意味があることも、人や物に名前があることも、本物の路線バスや電車に乗ったこともなかった。街に初めて出て、人や場所に自分の存在が刻み込まれたいわばファースト・インパクトの時点で、文字を覚え、聴覚障害の先輩から手話を教わった。数年後、しだいに一人で街に出るようになり世界の半径がどんどん広がってくると、自ら身ぶり、手ぶりを編み出し、独自の手話世界を紡いでいった。絵日記も時には幻想世界らしきバリエーションを加えて行った。それらをまじえることで、初対面の人々とのつきあいも増えて行った。
 この日も話した面白い話は、画伯がよく公衆電話からSOSをしてきたこと。黄色い部屋の電話番号を通行人に渡して電話をかけさせ、自分が出る。ヴェーヴェーヴェーという声が、時に悲しげに、時に思い知ったかと言っているように聞こえる。ややあって通行人が代わって出て、場所や状況を述べる。そんな電話の使い方をする障害者もほかに聞いたことがない。
 今日の画伯は、久しぶりに主役になり、張り切って説明をしていた。画伯がまだかろうじて視えて自力走行し、「未確認走行物体」だったのは、1980年~2005年の四半世紀のこと。今回はタイトルに入れたのに、この時期に画伯が行った「街びらき」については整理しきれなかったので、宿題にしよう。


[発信日時 :2018年08月01日、23:00]

https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1726508177417815





 
 


△facebookで発信されている動画(2004年、橋本宅における金曜日の手話会).

https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/videos/1726418470760119/


   
 







介護者になったわけ」――[2018年7月18日(水)の模様]。
 
●佐藤栄子さん(わら工介助者)

 7月18日(水)は第3水曜なので、12:00から仕事おこし懇談会inこしがやとのコラボによるLunch Cafe どっこいしょで、いつものようにワーカーズコレクティブ「キッチンとまと」のカレーとコーヒー。その後はすいごごカフェ。ゲストは佐藤栄子さん(わら細工介助者)。

 今回は参加者からの感想を転記して報告に代える。
 ◆わたしのかいじょしゃ・さとうさんがゲストで
 さとうえいこさんにわらじにはいったきっかけ、とわらざいくにはいったはなしをききました。
 たぐちさんのかいじょのじまさんのかいじょ、のじまさんのかいじょはいっているはなしとかさいしょは、ひよしさんのかいじょいきっかけにわらざいくのかいじょするたちばでのはなしをしてくれました。(友の)
 ◆すいごごカフェ 佐藤栄子さんの話を聞いて・・
 息子さんを突然亡くし、そのことから心が離れない日々の中で出会った街頭での介助募集のチラシ。自分にも何かできるのではと、わら細工に入った。介助を通して様々な人と出会い、1つの事に囚われた心が徐々に解放されたと話された。
 初めて介助に入ったのが介助を生活全般に入れて暮らしている野島さんの入浴と泊り介助。歳を重ねて野島さんの入浴や泊り介助が難しくなった頃、野島さんから「佐藤さんなら〇〇さんと合うんじゃないの」と紹介され、現在は団地で介助を入れて1人暮らしをしている人の泊り介助、その他に2人のお弁当作りや店番する障害者の介助として活躍している。
 こんなふうにコーディネイトしてくれる人がいたから介助を続けられたとも話していた。
 私も年をとるにつれ出来ない事ばかりが増えていく。ともすればその事ばかりが気にかかり不安になる。でもその変化に合わせて今の自分を生きる。
 それは誰にとっても大切な事だと佐藤さんの話から教えられた。(日吉)
 ◆武里団地の暮らしは半世紀
 息子の突然の死をきっかけに、チラシで見たわら細工へ行き、介護を初めて体験した。自分でも役に立つことがうれしかったと話される栄子さん。今も、友野さんの弁当づくりや由利子さんの介助に入っているそうです。
 会食サービスのボランティアも、料理好きな自分には合っているし、大勢で一緒に食べる食事はやはり楽しいと。
 最後に、武里団地は棟と棟の間が広く、木々もあり、鳥が鳴き、公園の中に住んでいるようでと、お家自慢?うらやましく思った山﨑です。


[発信日時 :2018年7月23日、16:00発信]
 
https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1712048322197134




   
 






宇宙の仕事って、なんだ」――[2018年7月11日(水)の模様]。
 
●北倉和久さん[筑波宇宙センター(JAXA)研究員]

   7月11日(水)のすいごごカフェ、ゲストトークは筑波宇宙センター(JAXA)研究員の北倉和久さん。
 北倉さんは、たそがれ世一緒の管理人ですいごごカフェの常連でもある樋上秀さんの紹介で、今日初めて世一緒に。樋上さんが代表を務める「誰もがくらしやすいまちづくり実行委員会」に、北倉さんは一家で参加している。もともとは、同実行委員会に団体として加わっている「しゃけの子いくら会(障がい児者の地域生活を考える会)」で、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会の代表理事・山﨑泰子さんと仲間である。
 今日のテーマは、すいごごカフェとしては異色の「宇宙の仕事ってなんだ」。北倉さんのお連れ合いが山崎さんらに、「夫が家で宇宙の話をするんだけど、私が聞いてあげないの」と話したので、「じゃあ樋上さん、ここで聞いてあげようよ」と言ったのがきっかけだと語る。
 その家での様子が目に浮かぶような、楽し気な、熱の入った話しぶり。ロケットの模型を勤務先のJAXAから持ってきて、パワポを映しながら、そもそも論などまったく通り越して、「どうやって宇宙まで人工衛星を運ぶの?」、「人工衛星はどうして落ちてこないの?」と、つぎつぎと魅惑的なクェスチョンを投げかけ、みんなをひきこんでゆく。
 第1問の答えは、人工衛星を先端に取り付けたロケットを斜めに打ち上げ、地球の自転を利用して、新幹線の100倍の速さで打ち上げる。第2問の答えは、地球は丸いから、速ければ落ちてこない。
 とまあ、まさに昔の紙芝居屋さんが、紙芝居の途中に入れたクイズのようなプレゼンをコンパクトに終えると、世一緒障害者スタッフたちが中心の客席から、つぎつぎと素朴な質問が。
 Q.衛星同士がぶつかることはないのか?
 A.アメリカのノアで衝突の解析をしていて、国際宇宙ステーションとぶつからないことを常時確認している。ぶつかりそうだからと打ち上げを延ばすこともある。
 Q.この仕事について、初めてロケットが飛んだときは泣いたか?
 A.ロケットが落ちないか双眼鏡で監視する役だったので、泣く暇もなかった。
 ……といったやりとりが続々。
 樋上さんが、月では重力が地球の6分の1というが、電動車いすで飛び跳ねることができるかと質問。北倉さんは、人間と電動車いすで計100kgとしたら、15kgの力があればということですよね、でもその前にロケットにも障害者差別解消法を適用して乗れるようにしないのはおかしいと言っていく必要がありますねと答えた。
 また樋上さんは、「誰もがくらしやすいまちづくり実行委員会」で時々開いている見学会の目的地として、宇宙センターは人気がなかった、それは宇宙に金かける状況ではなく福祉や防災にその金を回すほうが現実的だという理由からだったが、そのいっぽうで競馬場については人気があった。どちらも現実的ではないかもしれないが「賭け」であり「夢」だという点で同じではないかと思うのだがと述べた。
 北倉さんは、私も障害者福祉の側にいる人間として、ロケット1本作るのに100億かかるのなら、もう少しこっちへ回せよとは思う。でもCO2測定したり、大雨の状況を観察する人工衛星を飛ばしたりすることまでやめてしまったら、アメリカに強いこと言えるだろうかということも確か。そのバランスをどうするか、ポリシー次第だと思うと話していた。
 JAXAの障害者雇用については、北倉さん自身、車イスの人を二人知っており、全盲の人でプログラムを作っている人もいるが、残念ながら募集要項は「身体障害者」に限定されているという。「共に働く街をめざす自治体提言」を受けて越谷市で知的障害者、精神障害者の臨時職員採用が始まったことを北倉さんに伝えたら、「JAXAにもぜひ一言言ってやってください。あ、私が言えばいいのか」。

[発信日時 :2018年7月23日、15:00発信]
  https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1712013818867251



   
 


 





SHUがいる街で――[2018年7月4日(水)の模様]。
 
●SHUさん(スペイン放浪生活をくぐって)

  職場参加ビューロー世一緒で7月4日(水)に開かれたすいごごカフェのゲストは、SHUさん。紹介者でこの日の司会を務めたのは樋上さん。樋上さんによれば、彼が店長を務めた東越谷の重度障害者職業自立生活協会の店・トムテと同居し、トムテ閉店後もそこで営業を続けていたワーカーズコレクティブの店・マザーズハウスで20年くらい前に初めて出会ったそうです。SHUさんは、トムテやマザーズハウスの大家さんの孫娘で、わらじの会の介助にも入ったりしたNさんと中央中で先輩・後輩の仲です。「みんな越谷の住人で、ぼくもうろついていて、よくSHUちゃんとも会った。今日は、スペイン留学の話とか、放浪の話とか。」と樋上さん。さて、以下はSHUさんの話。
 4男として生まれたが、小さい頃からおままごとが好きで、お母さん役をやり、お父さん役にされると怒って帰った。いじめられたが、3人の兄たちが仕返ししてくれた。松田聖子ちゃんがデビューした時、自分もああなりたいと思い、塾の先生からカツラを借り、女の子に衣装を借りて、中学の文化祭に出たらうけた。私の中に別の人格の女の子がいて、なんか女の子っぽい人がいると思われることに快感を覚えた。でも、大好きな先生に大事なところを触られ、大嫌いになった。
 高校ではいい先生にめぐり逢えた。でも体育で男女別々に分かれて着替えるとき、どうしても男の子の前で着替えが出来ず、チャイムが鳴ってから着替えていたので遅刻にされ、けっきょく留年になった。
 スペインに留学した時は、バルセロナオリンピックに向けて日本から派遣社員が来ていて、語学学校で一緒になったが、「おかまと一緒になっちゃったよ」と言われてやめた。それからゲイバーで友達を作り、なかよく遊ぶようになった。知り合った女の子に「ゲイなんだ」と話したら、「オレンジが好きか、リンゴが好きかのちがいでしょ。」と言われ、スペインはいい国だなと思った。けっきょく14、5年いた。スペインは大麻が合法で、大麻をすると自由になり、自分に合っているなと思った。スペインは売っちゃいけないけど、育てるのは合法。スペインではほとんど仕事はしていなかった。親が金があったから。
 スペインにいた時に、知り合いの男の子のことが大好きになった。彼は女の子が好きで、女の子として私を見てくれた最初の人。「女っぽくていいじゃないか」と言ってくれた。でもボスニアヘルツェゴビナにブルーヘルメット(志願兵)として行くと言うので、耐えきれなくて、「行くんだったら死にます」と言った。けっきょくそれを知った日本の親が大使館に連絡して、強制送還になった。日本では、薬物中毒ということで、障害3級になっている。
 どこからを「性同一障害」というのかということには抵抗がある。前に金八先生を見て、「あ、障害なんだ」と思ったとき、ラッキーという印象と、イヤだなという印象と、両方あった。いちばん悪いのは、「ちょっと気持ち悪い人」となっちゃってる今の状態。それがすごく不満。スペインではそんなことない。「見世物じゃないんだぞ、くそばばあ!」と言わないと自分を保てないところがある。
 胸毛は濃いが、なんで剃ってまで女になる必要があるのかと思う。このごろ小さな子の中で、中性ブームで、女の子でも男の子でもないのがもてはやされているから、みんな髭やすね毛を剃っている。Tシャツに乳首が見えると嫌だからと、乳首切除までしてしまう。私はそういうのに抵抗して生きていきたい。
 去年クモ膜下出血やっちゃって、その時の写真がこの髭面。化粧してんのになんで髭生えてんだと言う人がいるが、いいでしょ、それが私なんだからと言ってる。お化粧も上に1枚乗ってる感じが嫌で、今はやっていない。一回死にかけてから、「見て見て、珍しい生き物がいるんだから」とか、道で会った人に言っちゃったりする。この間なんか、牡丹付けてみた。「天然記念物です」って言ったら、「SHUちゃんは絶滅危惧種だよ」って言われた。
 いま生活保護を取り、アパート暮らしで、そこから実家の母のところへ通って、食事や洗濯の世話をしている。母にはかって「見世物じゃないの⁉」となじられ、「見世物を産んだのは、どこのどいつよ!」とやりあったこともあった。ボランティアでスペイン語教室をやっていて、生徒が8人いる。ふだんはロングスカートかスカンツをはいている。
[発信日時 :2018年7月11日、23:00発信]
 https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1694681577267142


   
 

 




◆2018年6月の“すいごごCafe”



地域ぐらしの手帳――[2018年6月27日(水)の模様]。
 
●廣井みえ子さん(てとてとての会会員)

 6月27日(水)のすいごごカフェは、せんげん台の就労移行支援事業所「世一緒」で行いました。この日のゲストトークは、廣井みえ子さん。予告の肩書は「てとてとての会会員」です。タイトルは「地域ぐらしの手帳」としました。
 先月の末に、やはりせんげん台で所長の高瀬さんのトークで行われたすいごごカフェの際、参加していた廣井さんからお聞きしたトークの内容を次のようにまとめておきました。「病気が治らなければ街で暮らしたり働いたりできないの? そんなことはない、「社会資源」の使い方ひとつであたりまえの暮らしができることを、具体的に伝えます。」
 実際には、この日、廣井さんはまず生い立ちを含めて個人史を話されました。彼女はこの日も帽子をかぶっていましたが、子どもの頃天然パーマといじめられたことがきっかけだそうで、いまはおしゃれも兼ねてかぶっているといいます。以下は、当日の話の一部。限られた時間での話のため、タイトルの「社会資源」にまでたどり着きませんでしたが、その大事なベースの部分です。
 かつて廣井さんは幼稚園で働き、夜はⅡ部で学んだ。夜の学校が終り、駅を降りてくると車の列ができていていつも不思議に思っていた。ずっと後になって、みなさんそれから遊ぶんだと気が付いたという。
 その後、夫となる人と出会ったけれども、なぜかうきうきした気持ちになれず怒らせてしまい、デートDVにあってしまった。結婚してからも夫は家事を手伝ってくれず、子供が喘息発作で救急で受診することが多かったが、子どもにやさしくできない自分が嫌になり、信田さよ子さんの「愛情という名の支配」という本を見て、これだと思い、悲しい気持ちになった。でも夫はこういう人だから、私がいないとやっていけないと思っていたので、別れるまでに20年かかった。夫が暴力をふるうのは自分が原因だと思っていたが、いまは謎だと感じる。でもわからないところがあってもいいのかなと。
 20年後、夫がギャンブル依存症になり、会社の金を使い込んでしまい、会社にも行かなかった。上司が家庭に来て初めてそのことを知った。夫は実家に帰り、子ども二人とアパート暮らしになり、保育園で働いたがうまくとけこめず、あとはつなぎの仕事で生計を立てた。
 肺炎になり倒れ、自力で病院にたどり着き、気が付いたらICUにいた。元の生活に戻ったが働くこともままならなくなり、拒食症になり水を飲むのがやっとになった。生きていく気力がなくなり、息子が不登校になったのがきっかけで、自分もうつ病になった。気が付いたらベッドの上で拘束されていた。外してほしいと頼んだが拘束はとけず、でも意外にも一晩で解放された。その時に見た青い空の色と風の匂い。こんなきれいな空が見れるなんて、私は生きていていいんだと思った。私を受け入れてくれることを実感させてくれる空の色だった。人騒がせだったけど、私にとっては必要なことだったんだと思って、後悔してはいない。
[発信日時 :2018年7月11日、16:00発信]
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▲障害者就労支援事業所:「せんげん台世一緒」にて。




埼玉の縁と障害学」――[2018年6月20日(水)の模様]。
 
●増田洋介さん (現在障害学を専攻する研究者(院生))

 職場参加ビューロー世一緒で6月20日のLunch Cafe どっこいしょの後行われたすいごごカフェは、県庁内「福祉の店」アンテナショップかっぽの初代店長で、その後デザイン会社などでブラックな働き方を経てうつ病になり、現在障害学を専攻する研究者(院生)・増田洋介さんをゲストに迎えて。増田さんの個人史と障害学のからみをいろいろ話していただいたが、まとめも長くなりそうなので私のブログに委ね、ここでは修士論文のテーマに連なる「なんでもかんでも自己決定ってちがうんじゃない?」をめぐる、当日の語り合いを少し紹介。
 参加者の樋上さん:「最近駅員に『係の者を付けますか?』と訊かれて悩んじゃう。前みたいにつっけんどんに言われた方が、なにくそと戦闘モードになるからコミュニケーションしやすい。だけど最近は親切に言われるから、逆にかったるい。自分自身話すのが大変になっているので、流された方が楽という結果になる。それと、訊いてはくれるんだけど、訊きましたよねという感じ。昔は向うが勝手にやって、大喧嘩になって、でもこちらの言いたいことはわかるという関係だった。」
 増田さん:「いま至れり尽くせりで、押し問答がなくなっちゃってるけど、アリバイみたいな感じで、結局駅員の都合でやっているのかな。自己決定のふりをしているけど。人間関係は前の方が面白いのかな。昔はわかりやすい形でバリアがあったが、今はそれが見えにくくなっている。」
 大家さん:「認知症のGHなどで、その日着る洋服を『どっちにしますか?』と本人に訊くというマニュアルがあるけど、選べない人には疑問が残る。イラクの戦闘地域に行くのも『自己決定』と言ってるけど、けっきょく『自己責任』にされちゃう。ああいうのも怖いなと思う。」
 日吉さん:「昔会社員時代、初出勤したら、手すりが勝手についていて、親切なんだろうが、自分には使いにくく一度も使わなかった。後になって、上司に『私には何の役にも立たなかった』と言っちゃった。せめて本人が職場に来てから本人に訊いてやってくれれば。全部悲喜こもごもで、それが山下さんの言うせめぎあいなんだろうけど。」
 増田さん:「いま話していることって、全部障害学なんですね。みんな障害学やってるんですよ。今回それがいちばん言いたかったから、そう思ってもらえるとうれしいです。」
 [発信日時 :2018年6月28日、10:03発信]

https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1675068269228473



   
 







労働人生から得たもの」――[2018年6月13日(水)の模様]。
 
●水島茂治さん (職場参加ビューロー・世一緒の常連スタッフ)

 6月13日の世一緒すいごごカフェのゲスト・職場参加ビューロー・世一緒の常連スタッフの水島茂治さんが作成し、読み上げた文章に、コメントを付けてブログにアップしました。
 ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
 間もなく65歳になる水島さんが中学を卒業してから現在まで、板金工、自衛隊、警備保障、食器洗浄などの職場でどのように働き、家族や周りの人々とどのように暮らして来たのかを語っていただいた。
 「世一緒の常連スタッフ」と書いたが、「常連」になったのは60歳をこえてしばらくになる、つい昨年あたりからで、ここ10年近くは私たちが受託していた市障害者就労支援センターの支援を受けて、主に病院等の食器洗浄の現場で働いていた。
なお、就労支援センターと出会う前は一般枠で、主に警備保障関係の仕事が長く、若い頃は自衛隊に8年間いた。その前が板金工。とにかく、ずっと働き続けて生きてきた。労働現場での数えきれないいじめや差別をくぐりぬけ、何度クビになっても働くことをやめなかった。「働かざる者食うべからず」に疑いなどはさむ余裕とてなかった。生保を受給するようになったのも、ここ数年のことだ。
 若き日の自衛隊で出会った人といまでもつきあっていて、基地を公開する記念イベントに毎年出かけてゆく。また相撲部屋の後援会に入っていて観戦に行くし、高校野球の応援にも行く。労働は厳しかったが、その中でここまで生きてきた自負がある。
 いまはもう、体のあちこちが故障し、「自分のからだは薬でできている」と笑うほどで、世一緒で請け負っている除草作業も休み休みという状況ながら、時間が空くと「ハローワークに行ってきます」と出て行く。そして、必ず特別支援部門で相談し、求人票を何枚かもらってくる。もう応募することはないが、こうやって労働市場の風に吹かれることが、からだと心に合ったデイケアになっているのかもしれない。


[発信日時 : 2018年6月21日  PM15:30]
 https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1665013210233979 

⇒詳しくは、ブログのページへ。    

◇共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す【作成日時 : 2018/06/21 14:27】  

 
「働かざる者食うべからず」から生還、ハロワがデイケア 水島さん

http://yellow-room.at.webry.info/201806/article_4.html

   
 




自分とのつきあいかた」――[2018年6月6日(水)の模様]。
 
●橋本直子さん(若年性パーキンソン当事者)

 6月6日のすいごごカフェは、「自分とのつきあいかた」と題し、若年性パーキンソン当事者の橋本直子さんをゲストとして迎えた。彼女は予め原稿を用意してきて、まずそれに沿って語ってくれた。その原稿は、私のブログに全文掲載するので、そちらを参照されたい。
http://yellow-room.at.webry.info/201806/article_3.html


 橋本さんは、原稿のほかに、小学生のころ砂浜を走っている写真や、高校に入学した時校舎を背景に撮ってもらった写真をパソコンで見せてくれた。また、10年間精進した書道作品、そしていま使っている自己注射のセットなども持ってきて、みんなに見せてくれた。
 彼女はくらしセンターべしみの通所者となってからかなり経つが、最近まで体調が悪く、ほとんど通所できていなかった。そういえば、彼女との出会いは、彼女が開設2年目の越谷のハローワークに来て、その同じ建物の3階にある就労支援センターに紹介されてきたことからだったんだなあと、記憶を呼び覚まされた。
 「障害者に関っている人に会ったのはあれが初めてでした」と言う。そして、「いろんなことに挑戦させてもらった」と。車いすで公共交通機関を利用しあちこちへ出かけ、月刊わらじにも「來來部屋」と題する書とエッセイの連載をもったこともあった。「その後7年間くらい、幻聴と幻覚に襲われ苦しんだけれど、いろんなことができて実りある時期でした。」とふりかえる。この幻聴、幻覚は、彼女の治療に欠かせない薬と密接な関係にある。
 「薬は怖いもので、幻覚や幻聴のきっかけを作ることもあるなあと思います。よくも悪くも背中合わせだなあと。昔、薬によって嘘のように歩けた時期もあったし。ひとつの薬でこれだけ人生が変わるんだなあと思いました。」
 どんな幻覚、幻聴なんですかという質問に、「私の場合、ご先祖様が出てきたんです。『この幻聴はいつか終わるから。寂しいとか思っちゃいけません。』と言うんです。治ってから、ご先祖様に言われた通りだなあと思いました。」
 「書道はふるえてしまい、できなくなりました。」と言いながら、「将来、ふるえも一つの芸術として考えられるようになった時書けると思いますが、いまはいったんお休みです。」という言葉に魅かれた。
 彼女の原稿の末尾にある「無理しない、頑張らない」という言葉について、「やりすぎちゃう自分自身を抑えているのかなあ」という質問に対して、「抑えていることは抑えているけど、自然体で抑えられるようになってきました。現状を受け止めないと自分はずっと同じだなと思うようになって、いまは自重して自分の中でできることをやっています。」と答えていた。ひらかれつつある扉の奥が一瞬のぞいた。



[発信日時 : 2018年6月7日  PM16:42]
 https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1647936291941671

 

⇒詳しくは、ブログのページへ。    

◇共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す【作成日時 : 2018/06/07 18:28】  

 
若年性パーキンソン病を生きる―自分という社会で


 http://yellow-room.at.webry.info/201806/article_3.html

 
 
   




◆2018年5月の“すいごごCafe”




住まいを共にするとは」――[2018年5月30日(水)の模様]。
 
●わらじの会の生活ホーム・もんてん、オエヴィス世話人若林佳誉子さんと入居者の柴田さん、小川さん、会沢さん

 国の制度化が進み、障害者だけでなく認知症高齢者も含めて、小さな施設として扱われ、サービス市場の一部と化したグループホーム制度。しかし、その起源は、施設や病院ではなく地域の一員として暮らしたい・暮らさせたいという思いを原点に、各地域や人々の実情の中からさまざまな工夫と挫折を重ねながら生み出された小さな共同の住まいだった。「共同」とは異なる人と人との支え合いとぶつかりあい、そして折り合いのプロセスである以上、この日率直に語られたように、「お金がなくなる」ということも、「大声で怒る」ということも、当然ある。むしろ、それらを排除した管理・統制の体制を整えるのでなく、日常的ないざこざを通して住まい方・暮らし方を編み出してゆくために、介助も地域の学生や主婦、高齢者などに交替で入ってもらっている。
 今日語られた「スプリンクラー問題」はそれらの凝縮。オエヴィス、もんてんは、いま「違反建築物」として越谷市消防本部のHPに公表され、スプリンクラー等が設置されなければさらに厳しい処分を課されると通告されている。これから市福祉部との話し合いが予定されているという。もちろん若林さんや入居者たちは、火事に備える体制・訓練を日常的に行っているが、それは施設としての管理の一環としてではなく、住民とそこに関る地域の人々の暮らしの自治の一環として行っている。  
 いま国交省は、「住宅確保要配慮者」として、低所得者、被災者、高齢者、障害者、子どもの養育者への「住宅確保」支援を行っていることになっている。しかし、昔以上に「住宅」の概念が狭まり、多くを「福祉」に丸投げしている。国交省よ、自治体の住宅担当部課よ、めざめよ!

   
   


[発信日時 : 2018年6月02日  14:00]
 https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1643105672424733





精神医療ってなんだ」――[2018年5月23日(水)の模様]。
 
●高瀬勇さん (就労移行支援事業所「世一緒」所長)

 東越谷の職場参加ビューロー世一緒で昨年度42回開いた「すいごごカフェ」の第2期を5月からスタートさせた。23日、オープン間もない千間台西の就労移行支援事業所「世一緒」で、試験的に「せんげん台すいごごカフェ」を開いた。ゲストトークは、就労移行支援事業所「世一緒」の所長になった高瀬勇さん。県内や都内のいくつかの精神科病院で40年間働いてきた。
 障害者の職場参加をすすめる会が越谷市から就労支援センターを受託した2005年に、階下のハローワークと3階の就労支援センターに、デイケアに通う人々と一緒に「おしかけ隊」となのって毎月やって来たのが出会い。その頃、デイケアのメンバー4人ほどが交代で働く形で、週5日1人分の仕事をやる(グループ就労)という約束を企業と交わし、他の職員とともにこれを支援した。その後各人の病状も変わり、辞めていったが、現在も一人は働き続けているという。
 高瀬さんは、精神医療を利用する当事者中心の同人誌「深呼吸」編集長でもあり、その執筆陣も何名か参加。この日の参加者は、すいごごカフェ始まって以来の最多を記録した。
 高瀬さんは、幻覚、妄想に翻弄されている人の世界にまぜてもらいたいと、自分も保護室に入って、一晩中宇宙に向けて一緒にモールス信号を打ったこともある。
保護室はすべてダメではなく、看護者がそばにいれば反対ではない。「隔離」の場合はまだマンツーマンでいることもできるが、「拘束」してしまったら看護は成り立たない。信頼関係はあり得ない。電気ショックをやる医者がいた病院で、電気ショックを止めさせようとしたがだめで、電気ショックの介護はやらないと宣言した。自分はクビにならなかったが同僚が不当解雇され、1人で組合を作って頑張ったこともある。日本は薬も入院も拘束も世界一だ。
 参加者と高瀬さんの質疑応答がたくさん行われ、興味深かった。たとえば、高瀬さんの話の中で、グループ就労した人の中に幻覚、妄想が職場でも起きている人がいて、それを高瀬さんに話すとすっきりする、ぎりぎりのところでとにかく聞く、そうやって聞いていると今度は自分がしんどくなるから、他の同僚にシェアする、と語られた。それに対し、
 参加者「幻聴や幻覚は、それは幻聴でしょと言っちゃいけないんですか?」
 高瀬「言っちゃいけないとは思わない。看護師だからそう関わっているだけで。」


   
 


[発信日時 : 2018年6月01日  14:00]
 https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1642624515806182

  


東大『闘争」の前と後」――[2018年5月16日(水)の模様]。
 
●水谷 淳子さん (耳鼻咽喉科開業医)

 5月16日、仕事おこし懇談会inこしがやとタイアップしたLunch Cafe どっこいしょでキッチンとまとのカレーを頂いた後のすいごごカフェ。ゲストトークはわが連れ合いの水谷淳子さん。「東大『闘争』の前と後」と題して。闘争を「 」で括ったのは、主に医学生・医師サイドの個人の生活過程としてという意味合い。
 自作の年表を用意しての語り。その一部だけ紹介。 
 全学に闘争が拡がる何年も前から医学部では「インターン制度完全廃止」を掲げ、全国の医学部卒業予定者が団結し、国立病院等でのインターンを拒否し、大学病院に立てこもり独自の研修プログラムを組んで大学側に認めさせるべく卒業試験ボイコットを行うなどの運動が毎年続けられていた。卒業生は医卒連や青医連を結成してその後も運動し、教授が支配する医局講座制の解体や薬害・公害・侵略・差別に加担してきた医学・医療のありかたの問いかけも行った。
 水谷さんは1年半にわたり卒業試験ボイコットを続け、毎日みんなで討論したり、デモに行ったり、アルバイトに行ったりした時を振り返り、あれがなければいろんなことを考えることもなかったと語る。
 安田落城から卒業試験を受けるまでの8ヶ月間、主にやっていたことは留置所、拘置所巡りだった。医師となってからも、生活保護受給者たちがフロアに布団を敷いて暮らしている病院や出稼ぎの人が沢山来る上野の診療所でアルバイトしたりした。アフリカまで往復する船の船医もした。それらの体験がなければ、いまここにいないだろう。
     ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 以下は、参加者の感想&自己紹介より。
・歴史の授業やテレビで見る学生運動の話を個人の生活を元に聞けて、身近なものに感じました。激動の時代で大変だったろうなという思いと、今と違い自由に動ける雰囲気があったのかな?と少しうらやましい気持ちがあります。(後略)
・(前略)名前を覚えていない人がいます。失礼します。少しは働いたことあるのですけれど、だいぶごぶさたしているので、忘れてしまったかもしれません。(後略)(山浦)
・(前略)水谷さんのお話を聞いて、少しでもさんこうに考えて行きます。
・(前略)水谷さんのお話を聞きに来ました。世一緒に来るのは初めてです。ありがとうございました。
・「ヘルメットをかぶったお兄さんたちが隊を組んで大声で歩いてる」絵を思い描く時代のこと、何が起こっていたのかは今もよく知りませんでした。東大理Ⅲから始まった騒動、くらいにしか。中でその事件(?)を身体と心と頭で通り抜けて来られた方の話をライブで伺えて「そうだったのか」と理解できたり、ここは曇らせて語られてわからなかったり、でしたが、興味を持って聴けました。(後略)
・きょうのすいごごカフェの人たちは、はじめてあう人たちです。お話がたのしみです。(癸生川)
・時代のうねりの中で生きてこられた様子、その中で誠実にふるまわれていた様子がうかがえるお話の中身でした。「キチンとケンカすると認めてくれるんだ」という言葉が印象的でした。
・百姓をしています。有機農法で野菜を作っています。毎日畑に出て、農作業をしたり、野菜を出荷したり、配達したりしています。畑ではできるだけ草を取らず、虫を取ったり殺したりせず、生き物がお互いに食べたり食べられたりしています。自然に近い状態で野菜が育っていて、生命力にあふれた、おいしい野菜に育ちます。(倉川秀明)

 
   
 



[発信日時 : 2018年5月16日  22:53 ]   

   https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1628146990587268

    


 ◆追補:16日の世一緒すいごごカフェ(ゲストトーク・水谷淳子さん)の大盛況ぶりと、みんなが帰った後、私の秘書的介助者奈っちゃんが生後1ケ月のいのちとともに世一緒に現れ、その次々世代のまなざしに射られる私とのコントラストの妙。


[発信日時 : 2018年5月17日  09:08 ]   

   https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1628146990587268




働く私からの平成史――[2018年5月09日(水)の模様]。
 
●土田 良幸さん (社福つぐみ共生会職員)

 平成時代の初めには証券マンとして、山一倒産後は病院事務の現場を13年、そして障害者福祉と出会って6年の私がいま考えること、そこから透けて見える時代とは。

 2018年度のすいごごカフェスタートしました。トップランナーは社会福祉法人つぐみ共生会職員の土田良幸さん。山形に生まれ5歳まで。風呂を雪でうめていた記憶。父の仕事の都合で東京江東区に移り豊洲近くに22歳まで。ヘドロ臭い海辺、年中光化学スモッグ注意報が出ていたイメージのまちだが、最近すごい変わりようでびっくりしているそうです。
 新卒で証券マンとなり兜町の証券取引所で「場立ち」をやったそうで、そこでのサインをいくつか教えてくれました。当時は会社から電話で注文を受けて株の売り買いをするのですが、人がひしめいているので声とサインでやりとりをしたそうです。
 24歳で結婚してからは埼玉県八潮市に住みました。
 その後、支店事務を経て、個人・法人を回る営業になりましたが、当時は何をやっても儲かる時代で、平均株価が最高3万を超え、お客にありがたがられお礼をもらったりしていたといいます。しかし、やがて平成不況(第一次・第2次)が到来し、大手ゼネコンのお客さんから「この不景気は長く続くから早く仕事をかえた方がいい」と言われ、92年に退職し、地元の有床診療所に就職します。その後5年くらいして山一証券倒産を皮切りに、金融機関の破たんが相次ぎました。
 有床診療所では、事務当直もやり、薬を出したり、病名も覚えました。患者会が活発で、患者会の旅行にも何度か参加しましたが、利尿剤を服んでいる人が多いため30分おきにバスがトイレ休憩をしたり、食後はみんなが一斉に薬を服むシーンが記憶に残っているそうです。患者会を通して地域の縁があり、土地を購入し病院グループとして展開し始めました。14年間働き今でもつきあいのある人達はいますが、外資系の薬屋が経営陣に入ってきて経営方針が変わってきたのをきっかけに2006年12月に辞めました。越谷ハローワークに来て、初めて失業保険を、それもきっちりもらったそうです。もちろん、就労支援センターがハローワークのすぐ上にあり、私たちがいたことは全く知らないままです。
 その後、事務職ということで、総合建設業に就職しましたが、この会社は見沼にあり、物流関係の倉庫を建設するということで企業から手付けをもらい、地主に声をかけて土地を買収していました。手付けで給料を払っていたのが、給料が未払いになりました。皆が離れて行く中で土田さんは
最後までいたそうです。労基署に証明を出すと未払い分の約7割はもらえることを知り、その手続きをやめてゆく人達と一緒にやりました。
 土田さんが辞めたのは2010年。2011年の東北大震災の直後に、越谷ハローワークの医療・福祉の分野で検索して、たまたまわらじの会の社会福祉法人つぐみ共生会が生活ホームか生活支援センターで非常勤の支援員を募集しているのを知り、応募しました。1週間の研修があり、それが企業の事前研修のように知識やマナーの習得ではなく、「ぽぽんた」という障害者達が街に出て行く活動に一緒に参加するもので、行ってみたらあまりに皆が元気で、疲れもしたが面白かったし、すごいところだとびっくりしたそうです。その後会議に出ると、まったくわからない。また、いろいろな人が出入りしているので、顔を覚えられない。それが第一印象。
 就職後2ケ月目に岩手の被災地支援に派遣され、メインストリーム協会をはじめ全国の団体と知り合い、避難所、仮設、個人宅へ行き、聴き取りをした体験は、土田さんの中にいまもしっかり刻まれているようです。
 その後土田さんは生活ホームの職員として働くことになるのですが、2013年の暮れに生活ホームもんてんの元地主ともいえる新坂きみ子さんの体調が急変し、長年つきあってきた医師、看護師はじめおおぜいの人たちの中で看取り、その後階下のくらしセンターべしみで、親族と一緒に葬儀をやったことは、共に生きる地域づくりにとって大きな意味があったと思っています。
 また、生活ホームオエヴィスの長老入居者の新井さんにいろいろ教えてもらい、その新井さんが二次障害で入院手術した後も体調がよくはならず亡くなった後も、越谷で弟さん夫妻とともに大勢が参加しお別れ会を行ったことの意味も大きかったと思っています。
 その後の生活ホームでは、入居者の小競り合いやお金が失くなるなどいろいろなことを経験しましたが、入居者の状況、そこに関り合う人達の状況によって、世話人の仕事が大きく変わってくることを実感したと土田さんは述べられていました。
 聞いていた私は、この部分は、土田さんが企業で働いていた時、基本的に国際情勢や景気や経営方針により職場の状況、労働環境が支配されてきたこととの対比として受け取りました。もちろんそうした政治経済的な影響から逃れられようもないのですが、その環境下で人々がどう生き、せめぎあい、環境をどのように再生産しようとあがき続けているか、私たちは土田さんとともに、そこの部分をよりみつめ、発信し、考え合っていく必要があると感じました。

[発信日時 : 2018年5月09日  18:30]
https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1621384477930186
  

    

   
   
 


 ◆2018年2月の“すいごごCafe”


2018年2月21日
 すいごごカフェは、埼玉トヨペット(株)を退職された渡辺新一さんがゲスト。――[2018年2月21日(水)の模様] 

  
 
  全国に例がない本社ショールームで社員が市民団体と共に街づくりに取り組む「はぁとねっと輪っふる」初代責任者。幅広いつながりが面白かったし、自分の財産と語る。終了後、花束贈呈も。

 2017年度始まったすいごごカフェは、第3水曜は仕事おこし懇談会inこしがやのランチカフェうんとこしょとセットで実施され、毎回ゲストを招き、橋本克己画伯のミニ手話タイムもまじえ、この日でついに42回を数えた。
 3月、4月は、就労移行支援事業所立ち上げ応援のためお休みし、5月から新たに第2期すいごごカフェをスタートする予定。(「職場参加ニュース」、58号、2018年4月号より)。

黒田流「共生の技法」―矛盾を友として。」――[2018年2月14日(水)の模様]。
 
●黒田流「共生の技法」

 2月14日のすいごごカフェのゲストトークは、世一緒の障害者スタッフである黒田さんにお願いした。

 黒田さんは年間を通して主に週末や祭日を、露天商のアルバイトに費やしている。金魚すくいなどでなじみの親子もおり、その仕事が気に入っている。

 だから当初は就労支援センターの相談者として出会ったのだが、現時点では一般就労をめざしてはいない。しかし、一般就労や障害者自立支援法以前の「福祉的就労」をいろいろ経験しており、彼自身の問題意識をもっている。

 その問題意識から、黒田さんは「地域の職場に出て行って、職場・地域を一緒に変えてゆこう」という活動に参加し続けている。「障害者だけで集まってちゃいけない」とよく言う。そして、越谷市民ネットワークの活動にもよく参加している。

 そうやって仕事でも、活動でも、さまざまな人々とごちゃごちゃと動いているからこそ、矛盾に引き裂かれ、ぶつかり、迷う。
 それが時には出来ない障害者への「そんなことだから周りの人々の理解を得られないんだ」という説教めいた口調につながったり、今回の話の中にあるように、かつての特殊学級や施設という分けられた場の中でのていねいな個別支援に対する全面的な肯定にも表現される。

 論理の矛盾を指摘することはたやすいかもしれないが、実はその矛盾は、人を分け隔てる境界を、時にはこちらの言葉を用い、時には向うの言葉を、時にはその隣の世界の言葉を用いながら、往ったり来たりして、道に迷ったり、逆戻りしたりもしながら営まれている、「あたりまえ」の暮らしの表現なのだと思う。

 だから、それこそが、彼が独自に編み出した「共生の技法」にほかならないと、筆者は実感している。

 以下は、筆者の秘書的介助者の奈っちゃんにまとめてもらったすいごごカフェでの黒田さんのトーク。
(つづく)[発信日時 : 2018年3月01日  22:55 ]
  

    http://yellow-room.at.webry.info/201803/article_1.html

 

   
   
 




なんでもやってくることで形になった―巽さん親子のまちびらき。」――[2018年2月7日(水)の模様]。
 
タイトルは「知的障害にも全身性」。

―全国でただ一つの知的障害者介護人派遣事業―

 タイトルの意味は、全身性障害者に介護人派遣事業があるのなら、知的障害者にも介護人派遣事業をということ。
 すいごごカフェのチラシでは、「『さっこさんズルイ』との娘・優子さんの一言から、越谷市に全身性障害者介護人派遣事業を制度化させてきた巽孝子さん。ワーコレの店・こぶくろの経緯も含め。」とある。

 かつて東京都に始まり、大阪府・市がこれに次ぎ、三番目(1990年)に札幌市と埼玉県が実施した全身性障害者介護人派遣事業は、いま埼玉県にしか存在しない。障害者の自立生活にとって重要な、「そばにいて、一緒に動きながら、つきあいを重ねながら介助関係をはぐくんでゆく」といった関りが可能な制度としては、現在の総合支援法では「重度訪問介護」がある。

 だが、総合支援法の介護はずべて障害福祉サービス事業所からのヘルパー派遣という形式を必要とする。それに対して、介護人派遣事業は、原則として事業所を介在させず、障害者と介護人との当人同士が直接に合意することにより介助を行える。もちろん初めに障害者も介護人も市に登録しておく必要はあり、それによって、介助が終わった後、毎月の実績報告を両者が市に出すことにより、市から介護人に手当が支給される。

 かつて知的障害者ガイドヘルパーが、全国で大阪府下のみにあったが、いまは消滅し、全国でも越谷市のみが知的障害者介護人派遣事業を実施している。この事業成立の立役者が、巽さん親子だった。(つづく)[発信日時 : 2018年2月20日、23:03]
  

   http://yellow-room.at.webry.info/201802/article_5.html

 
   
   
   

▽全国でも越谷市のみが知的障害者介護人派遣事業を実施している。――1か月96時間、親の収入関係なしに本人の収入によって介護料が決まる、今の全身性と全く同じものが越谷市にできた。…よかった。

◆越谷市HPへ。

https://www.city.koshigaya.saitama.jp/kurashi_shisei/fukushi/syogaisien/zaitakusabisu/titekikaigonin.html



◆2018年1月の“すいごごCafe”

娘と共に街で――教育・福祉問い続け生きてきた小野さんのルーツ。」――[2018年1月31日(水)の模様]。
 
 小野達夫さん(所沢・教育と福祉を問い直す会,自立支援ホームとことこ)のまとめ――今も毎日発作のある知的障害の娘さんを、小・中とも近所の学校で共に学ばせ、専門学校へも。制度がさらに人を分ける時代にどう共に生きるのか、自らに問う。――をブログにアップしました。
 「…これまで筆者が不思議に思ってきたのは、市場調査というある意味では時代の花形的な職業でずっと働き続けながら、わが子を含めてどんな障害があっても地域で共に生きることにこだわり活動し続けてこられたこと。長いおつきあいになるが、小野さん自身の暮らしと仕事をじかにお聞きしたのはこれが初めて。定年まで勤め続けた企業が、勤め始めた頃は職場状況も劣悪で、労働組合の闘いをロックアウトで排除し、小野さんら組合は地区労の支えを受けて闘い続け、やっと経営のありかたを変えることができ、現在に至るのだという。そんな自分の働き方に関わる経験が、家族や周りの人々との地域での暮らし方にも、つながっているように感じた…」(つづく)[発信日時 : 2018年2月17日、09:38]
  

   http://yellow-room.at.webry.info/201802/article_4.html

 

   
   
   




橋本ミツエさん。盲ろう下肢マヒの橋本克己画伯のお母さん。」――[2018年1月24日(水)の模様]。
 
 40年前、19歳になるまで就学免除で家の奥にこもって生きてきた克己さんが時々パニックになり、荒れ狂っていた。共倒れ寸前の家族は親身になって相談に乗ってくれた市のケースワーカーに相談し、できたばかりの県立コロニーへ入所希望を出していた。そのケースワーカーが、前回のすいごごカフェのゲスト・正木さん。だが、正木さんも関わってその頃発足したばかりのわらじの会に家族ぐるみで参加し、街に出るようになってから克己さんは心を解き放って行った。入所決定が届いた時、家族は泣きながら、もう少し地域で頑張ってみようと決めた。(つづく)[発信日時 : 2018年2月12日、10:17 ]
  

https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1536544076414227?pnref=story

 
   
   
   

 ▽2018.02.14
【ブログへ増補更新】老障介護を生き抜くしぶとさのルーツ―ミツエさん「織子の青春」(作成日時 : 2018/02/14 15:33)
  
http://yellow-room.at.webry.info/201802/article_2.html


《資料から-画伯と家族の軌跡をたどる》 

 橋本ミツエさんの話は、このブログで過去2回とりあげてきた。

 「家族はいかに生きてきたか―橋本画伯の母・ミツエさんに聞く Ⅰ」
  http://yellow-room.at.webry.info/201110/article_3.html

 「障害ということ―家族はいかに生きてきたか 橋本画伯の母・ミツエさん Ⅱ 」
 http://yellow-room.at.webry.info/201601/article_8.html

 このうち、Ⅱ のほうは 子供問題研究会のユニークな会報「ゆきわたり」の2016年新年号に寄稿を頼まれたので、、ミツエさんの聞き書きに、以下のようなメモを付けて送ったと書いてある。
 
 まだ画伯としてデビューする以前の克己さんと家族の歴史については、たとえばこのブログの以下のページでふれている。

 「地域と障害―40年近くの歴史が現在を問う 支援のノーマライゼーション 鴻巣講演 」
 http://yellow-room.at.webry.info/201412/article_1.html




▽「労働差別と闘い解雇された30数年前――正木さんの語る共生のヒント」――[2018年1月17日(水)の模様]。
 
 当初のタイトルは「退職後の生活を語る」でしたが、それだけでなく、生い立ちや知的障害担当のケースワーカー時代の仕事、わらじの会の立ち上げ前後のこと、そして委託労働者と共に闘い、解雇された当時のことなど、静かに熱く語っていただきました。正木さんと会いたければ、木曜16:00~19:00世一緒に来れば会えますよ。重度障害者職業自立協会の店・トムテ元店長の樋上さんの介護人として、たそがれ世一緒と称するフリーな時空に現れるはずです。

労働差別と闘い解雇された30数年前-正木さんの語る共生のヒント[作成日時 : 2018/01/31 18:42 ]  

http://yellow-room.at.webry.info/201801/article_2.html



   
   
   
   

▽編集子も山下さんのブログを読んで、以下のように記した。
2013年1月16日 (水)に「モップとダイヤルの叛乱――自治体職場の非正規労働者とともにたたかった記録」と1冊の本を紹介した。
 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-c269.html

2015年4月18日 (土):『モップとダイヤルの反乱』のつづき
 http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-7c66.html

◇「現代労働組合研究会のページ」にその全文を読めるように、紹介している。
 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/120225roudoukumiaiundousi.htm#moppu


  




大坂冨男さん(無資格スーパー介助者)、すいごごカフェのゲストとして、世一緒でトーク。
 [2018年1月10日(水)の模様]。
 その報告を、「ブラック労働でトヨタ支え無資格スーパー介助者に転身の大坂さん」と題して、ブログにアップしました。すいごごカフェという「場」の特性や大坂さんと私の過去の「接点」についても言及しました。
 
 「ブラック労働でトヨタ支え無資格スーパー介助者に転身の大坂さん 」[作成日時 : 2018/01/28 16:07 ]

  http://yellow-room.at.webry.info/201801/article_1.html


   
   
   
   


   

◆2017年12月の“すいごごCafe”

▽12月20日(水)
《私の職場参加前史》 
当会代表理事  山﨑泰子さん


  

 音大でバイオリンを学び新星日響から誘われ入団。バイオリンを弾く人の中に赤ちゃんの時に足を火傷し装具を付け松葉杖で歩く人がいた。練習が終わると譜面台を自分たちで畳む時だけ障害者になる彼が許せず、面と向かってずるいんじゃないのと言った。それからは自分で畳むようになった。それまで特別扱いされてきたのだろう。そういう性格はいまもある。新星日響はクラシックが市民みんなのものだという考えで、運営についてもなんでも全体会で決めていた。
 重度障害の娘の親になり、この人が街にいることを二人で経験していこうと、あっちこっちへ二人で出かけた。親としての関心は、この子が大人になった時につながる。現在大人の障害者たちがどんな暮らしをしているか知りたいと思った。その中でふれあいの日実行委員会でわらじの会とも出会い、段差がどこどこにあるがどうするかといった声を聞き、いろんなバリアがあるんだとわかった。
 こばと館で知的障害の人達と音楽活動を始め、ボランティアに沢山の人が来てくれた。その頃「共に働く街をひらくべんきょう会」の案内がこばと館に入っていて行くようになった。職場参加って何か人に説明できないが、ここでこういうことをして社会に役割を果たしていると自分が思えることかなと。娘も通所施設で箸を並べるとか、水上公園作業にもこの頃参加させてもらっている。どの人も社会の中で役割を持ち、自分の音楽も活かせてきて幸せだったなと思っている。(「職場参加ニュース」、57号、2018年1月号より)。


12月13日(水)
《職場参加との出会い》
元就労支援センター所長 沖山稚子さん


  
 
 職場はそれぞれに文化や価値観や独特の価値観をもっている。それを若い時に言葉にできないながらも体験したということが財産になっている。自身のアルバイト・就職・生い立ちから、自分の経験があるから利用者に助言ができる。と語った沖山さん。
 ある人の考え方に触れ、応援しようと思って入っていく職場は、ぎりぎりの環境で働いている人もいるんだなと思いしった。
 嫌な人もその理由があるのかもしれないと思うようになった。
 職業興味、職業能力、雇われる能力が合ったところがあればいいけれど…エンプロイアビリティー雇われる力が必要だと考えている。
 現在は通常とは違う就労支援をもう一度したいという気持ちがまた湧き上がっているという。(「職場参加ニュース」、57号、2018年1月号より)。


(2017.11.23)

分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの

  《ブログ》共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す
    http://yellow-room.at.webry.info/201711/article_4.htm


 ▽NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が世一緒で今年度通しで開催している「すいごごカフェ」や生活クラブ他と連携の「うんとこしょ―共に活きる介護人養成講座」等の活動と、来年度立ち上げを予定している就労移行支援事業「世一緒」の関連について、2004年のNPO法人設立、翌年から10年間の越谷市障害者就労支援センターの運営受託の経緯と意味にさかのぼってのまとめを「分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの」と題して、ブログにアップしました。

 
 
  [出所]山下浩志さんのfacebookより。
   https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1460925790642723



(2018.06.07)
▽毎回、13:30~15:00 
 ◇ご興味のある方はぜひどうぞ。なかなか聞けない話が多いですよ。
 コーヒー 100円(カンパ制)


▽「ランチカフェどっこいしょ」[第3水曜日]は300円のカレーライス、13:30~のゲスト・トーク。
 ▽問い合わせは世一緒まで 048-964-1819(TEL・FAX)
             shokuba@deluxe.ocn.ne.jp






  ◇5月9日(水)から8月22日(水)までの「すいごごCafe」
 

 


店内イメージ

世一緒の地図店舗情報

NPO障害者の職場参加をすすめる会

〒344-0023
越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101

TEL.048-964-1819
FAX.048-964-1819













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