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障害のある人もない人も共に生きる職場・地域を NPO障害者の職場参加をすすめる会

電話でのお問い合わせは048-964-1819

〒344-0023 越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101

ご用命は“NPO障害者の職場参加をすすめる会”へ。

◇長期不況で地域の困窮や孤立が深まっている現状に対し、雇用と福祉の狭間の身近な仕事おこしを目的に、福祉施設利用者や在宅の障害者の社会参加を兼ねて、本人たちによる定期的な事業所訪問や困窮者等をまじえたグループ・アルバイトを実施し、その経過をホームページやシンポジウム、コミュニティ・カフェ等で発信し、先進地の見学・交流も行って、共に働くすそ野拡大をする事業を推進。

information新着情報

◆2019年07月11日
▽2019年06月12日(水)、「「梅里雪山の巡礼の道で考えたこと」――滝沢恵子さん(元ムーミンママ) 」をUP。
◆2019年06月29日
▽2019年06月05日(水)、「においを出し漂い1ミリずつ動く――当事者としての苦しみを他者の喜びに、山谷 理さん 」をUP。
◆2019年06月29日
▽2019年06月05日(水)、「加害を共にひらき弔う旅の途上でー・倉橋綾子さん(安保法制違憲訴訟原告団共同代表) 」をUP。
◆2019年06月09日
▽2019年06月05日(水)、「菓子問屋で20年働きつづけてきたことも――柴田美恵子さん(わらじの会の生活ホーム入居者) 」をUP。
◆2019年06月09日
▽2019年05月15日(水)、「ママチャリの人力移動で東に西へ――元世一緒障害者スタッフ・山脇雅史さん」をUP。
◆2019年06月09日
▽2019年05月08日(水)、「認知症と共に――平野栄子さんと三村倫子さん 」をUP。
◆2019年06月09日
▽2019年04月17日(水)、「若年性パーキンソンの橋本直子さんと二人暮らしの父・圭三郎さん 」をUP。
◆2019年06月09日
▽2019年04月10日(水)、「NPO法人共に生きるまちづくりセンターかがし座理事長の吉田久美子さん 」をUP。
◆2019年05月04日
▽2019年04月03日(水)、「映画と地域共生を語る―悪・異端とされたものとの共生とは――田名部憲一さん(社福つぐみ共生会職員) 」をUP。
◆2019年04月16日
▽2019年03月27日(水)、「え?! ナイチンゲール? 『ただそばにいる』精神看護から――高瀬勇さん(就労移行支援「世一緒」所長) 」をUP。
◆2019年04月01日
▽2019年03月20日(水)、「自閉症へのまなざしの下-共に育ち・働き、逝った息子は――長谷川美智子さん(草月流常任参与) 」をUP。
◆2019年03月29日
▽2019年03月13日(水)、「私が育ち働いた踏跡――発生川新一(けぶかわしんいち、世一緒障害者スタッフ) 」をUP。
◆2019年03月29日
▽2019年03月06日(水)、「すみわけ進む街で「共に学ぶ」の現在を語るー竹迫和子さん(どの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会事務局) 」をUP。
◆2019年03月12日
▽2019年02月27日(水)、「環太平洋が照らす現在を生きる――大熊真弓さん(生活クラブ生協越谷ブロック地域協議会) 」をUP。
◆2019年03月07日
▽2019年02月20日(水)、「雇用と福祉の谷間のロング アンド ワインディングロードで――上田靖さん(障害福祉サービス事業所MINTのピアサポーター) 」をUP。
◆2019年03月01日
▽2019年02月27日(水)、「「ピアサポート研究会」のテーマ:「すいごごカフェとは」(2月27日) 」をUP。
◆2019年03月01日
▽2019年02月13日(月)、「不幸自慢の部屋から――幡本建祐さん(フラッシュバッグ研究者) 」をUP。
◆2019年03月01日
▽2019年02月06日(水)、「閉鎖・移転にめげず――中原清さん(就労移行支援「世一緒」の利用者) 」をUP。
◆2019年02月23日
▽2019年01月30日(水)、「童謡百年とバリアフリー社会ー命がけのわがままを――たそがれ世一緒管理人・樋上秀さん 」をUP。
◆2019年02月11日
▽2019年01月21日(月)、「パプアニューギニアの原生林を守る人々を再訪-越谷の百姓・倉川秀明さん 」をUP。
◆2019年02月06日
▽2019年01月16日(水)、「ベルタさん、ミゲルさんと「アンデスの心」の旅――まだ入口(すいごごカフェ) 」をUP。
◆2019年01月30日
▽2019年01月09日(水)、「排除する社会でー転学・転職経て「共に」を探る―野村さんトーク 」をUP。
◆2018年12月31日
▽2018年12月26日(水)、「バブル底辺労働を経て街であがき生きる――菅野 秀義さん(介護人、就労移行利用、GH入居者)」「街の人・菅野さん(12.26すいごごゲスト)へのオマージュ」をUP。
◆2018年12月22日
▽2018年12月19日(水)、「風邪って インフルって――水谷淳子さん(谷中耳鼻咽喉科院長)」をUP。
◆2018年12月18日
▽2018年12月05日(水)、「共生の現在を探る――山下 浩志(NPO障害者の職場参加をすすめる会)」をUP。
◆2018年12月11日
「これまでの“すいごごCafe”一覧」をUP。
◆この間は、次のページへ
◆2018年1月30日
「すいごごCafé」のページをリニューアル。。
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     ➡上をクリックして。

毎週水曜日午後に開催! 12月12日(水)~



2018.12.23
[2018年12月05日(水)からの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。


[2017年12月20日(水)から12月05日(水)]までの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。


[2017年4月5日(水)から12月06日(水)]までの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。





   

 2019.06.20

 2019.04.10

 2019.04.10

 

◇(山下浩志のfacebook・ブログより)

◆2019年6月の“すいごごCafe”

2019.07.11

梅里雪山の巡礼の道で考えたこと」――[2019年06月12日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年07月02日]

 
●滝沢恵子さん(元ムーミンママ)

   

 雑多な人々、雑多な出来事が同時に在ることー世一緒の小さな公共

 もう40年ぐらい昔、北越谷駅のすぐ近くの裏通りを歩いていたら、道端に桐箱の部品がずらっと並べて干してあった。それが何軒かの他家の前の道端まで、延々と続いていた。
 いま橋本画伯宅の周辺は田園風景の中に町工場が点在しているが、それらの前の道路は工場の延長で、よくトラックが荷を積んだり下ろしたりしていて、フォークリフトが行き交っている。
 そんな風景の延長に、東越谷の職場参加ビューロー・世一緒はある。

   


 世一緒の出入り口は平日の10:00-16:00は、できるだけ開けっ放しにしている。
 だから、会議を開いていようが、作業をしていようが、古本や野菜を買いたいというお客、5円コピーを取りに来る人、ハローワークの帰りにふらりと立ち寄る人、ご自由にどうぞと書いてある棚のニュース類をもらいに寄る人や道を尋ねる人など、雑多な人々が出入りする。
 世一緒の中は応接室や事務室といった間仕切りがないので、複数の出来事が同時進行していることが多い。

 そして、6月12日(水)午後は、滝沢恵子さんをゲストに迎えて「梅里雪山巡礼の道で考えた」と題してすいごごカフェのトークが始まったところへ、行田市障害者ネットワークのご一行10名が越谷市障害者地域適応支援事業についての情報収集に見えるといった「解剖台の上でのミシンと雨傘の出会い」があった。


   


2軒のムーミンハウスの記憶から

まず今日の進行役で、滝沢さんの紹介者でもあるたそがれ世一緒管理人・樋上さんから、滝沢さんとのなれそめを。

 1987年、この東越谷に重度障害者職業自立生活協会の店・トムテが回転し、樋上さんが店長となり、それまで両親らと暮らしていた武里団地を離れ、この近くで一人暮らしを始めた。その店のお客さんとして滝沢さんのお連れ合いが来るようになり、その縁でお連れ合いが教員として勤める足立区の小学校で教職員向けにバリアフリーについての研修の講師を務めた。

 樋上さんは当時毎週1日だけ、やはりすいごごゲストになっていただいた植田さん宅へ夕方に出かけ、食費と介助料を出して、家族と夕食を共にさせてもらう、いわば通所型の「夕食介助」を受けており、それを「ムーミンハウス」と呼んでいた。やがて、その「ムーミンハウス」の2軒目として、滝沢さん一家4人の夕食に加わらせてもらうようになった。約3年間続いたという。ちなみに、当時、恵子さんは都立の養護学校の教員だった。

 樋上さんが滝沢家を「ムーミンハウス」として通ったのは90年代半ばで、阪神大震災や地下鉄サリン事件のニュースを滝沢家のTVで見た記憶がある。また樋上さんたちわらじの会の当時の若者は、フリースクールりんごの木の子どもたちとソフトボールを時々やったが、そこに滝沢父が子どもと参加した。また、恵子さんが子ども二人と一緒にわらじの会の夏合宿に参加したこともあった。

 滝沢さんは定年後山に登られているが、樋上さんは全国あちこちに旅をしながら山を見るのが好きなので、今日は滝沢さんに山の魅力について話をお聞きできればと言う。 以下、滝沢さんのトーク。

  ▽全文は下記のブログへ。
  
   (山下事務局長のブログへ)

 

 


2019.06.09

菓子問屋で20年働きつづけてきたことも―――[2019年06月05日(水)の模様、2019年6月5日にUP]。

 
●柴田美恵子さん(わらじの会の生活ホーム入居者)

   



 今日5日、職場参加ビューロー世一緒でのすいごごカフェは、始まって以来の25人もの参加。その多くは、わらじの会の生活ホーム、くらしセンターべしみ(通所)、パタパタ手づくり斑(農園・藍染等)の関係者。トークゲストの柴田美恵子さんは同居の親との確執が強まり、7年前から通所、昨秋から生活ホーム入居に至ったが、周りとの衝突やすれちがいなどを重ね、ソフトランディングを手探り中。
 その柴田さんは、幼いころからさまざまな形のてんかん発作をもち、小・中学校でいじめを受けながら通常学級に行き、高校でやっと自分を認めてくれる教員と出会い、その後職安でみつけた職を転々とした後給料は安いが受け止めてくれる菓子問屋で20年働いてきた。親にぶたれながら働き続け、少ないお小遣いの中から当時のわらじの会の障害者たちの店に手作り品を寄付していた彼女の歴史を初めて知って、みんな驚いていた。
 本人も助けを借りながら語り終え、ほっとひといき。

 

(クリックするとfacebookのページへ)

◆2019年5月の“すいごごCafe”

2019.06.29

においを出し漂い1ミリずつ動く――当事者としての苦しみを他者の喜びに――[2019年05月29日(水)の模様]。[作成日時 : 2019/06/11 15:06 ]

 
●山谷理さん(40歳から医療・福祉職へ転向)

   

 5月29日、毎月第4週の「すいごごカフェ」は、せんげん台の就労移行支援事業所「世一緒」の企画で開催された。この日のゲスト山谷理さんは、予めタイトルと短い説明を送ってくれていた。タイトルは「当事者としての苦しみを、自分と他者の喜びへ変える道」「私は閉鎖病棟への入院を経て、40歳から医療・福祉職へ転向しました。自らの過酷な体験を、やがて他者との痛みの共感・分かち合いに変えていくお話です。」と書かれていた。

 以下、当日の語りと、後日のやり取りから。
 「1976年富山県滑川市で、素材研究所に勤めていた父と、幼稚園教諭だった母の間に生まれました。」「子供の頃は、一人で土器を拾って歩いたり・化石を採りに行ったり、部屋で本を読んだりと、マイペースで内向的なところのある子供だったと思います。」と山谷さん。
 「物心ついたころから、絵やマンガを描くことは得意な方だったのですが・・・、幼い頃から『絵やマンガというのは、生業にするようなモノではない。』『マトモな仕事ではないので、他の仕事についたほうが賢明』という意識が強かったので、郷土資料室職員など、他の仕事に就く人生を模索していました。」と少年時代を振り返る。
埼玉県内の進学校(当時)に進学した頃から、人生の苦悩が深まって行ったという。
「転機が訪れたのは高校入学後の16歳の時、LGBTの問題で悩んだ事でした。」
 「自分で思うように食事が摂れず拒食症にかかり、頭皮が一部剥がれたりして、10代後半から人生のドン底を味わいました。」
 人生の早い時期から、過酷な人生と向き合った姿が伺える。
 「大学入試にも失敗し、どうしようかなと頭を抱えました。」「マンガなら、紙とペンがあれば描ける」と思い、翌々年、大阪芸術大学に入学。授業料・生活費を自分で稼がねばならない厳しい生活状況の中、自主退学して東京に戻る。
 マンガを描き始めた当初は、「積極的にマンガを描くことを選んだわけではなく、他に自分に出来そうな事が思い浮かばなかった」と語る。

 その後間もなく上京し、マンガ雑誌「ガロ」でマンガを描きたいと思い、持ち込み活動を始めたが、間もなくマンガ雑誌発行元の青林堂が、「ガロ」の休刊を発表した。
 そんなある日、コンビニで見かけたマンガ雑誌の出版社に原稿を持ち込んだところ、マンガ賞を受賞し初掲載にこぎつける。しかし翌年、マンガの方向性・制作姿勢の問題などで編集者・出版社を離れる。時折看板の絵を描いたり・細々とチラシのカット絵などを描きながら、「周囲の人に助けてもらいながら、何とか生活していた」と当時を振り返る。
 30歳以降、インターネットのマンガ投稿サイトに投稿したり、ゲームマンガを投稿したりした。「やりきれない、中途半端な状況」を抱えながら、悶々と生活していたという。
 ゲーム会社にイラストやマンガの投稿をしたことがきっかけで、35歳から商業マンガを一時描くも、翌年ゲーム会社の仕事から離れた。

  ▽全文は下記のブログへ。
  
   (山下事務局長のブログへ)

 

 


▼山谷理(Yamaya Aya)さんのBLOGへ(下をクリックして下さい)




2019.06.29

加害を共にひらき弔う旅の途上で――[2019年05月22日(水)の模様]。[作成日時 : 2019/06/13 13:11]

 
●倉橋綾子さん(安保法制違憲訴訟原告団共同代表))

   

 5月22日のすいごごカフェは、ゲスト・倉橋綾子さん(安保法制違憲訴訟・埼玉原告団共同代表)による「憲兵だった父の遺したもの」と題するトーク。倉橋さんは同名の著書を書かれている(㈱高文研 2002)。ほかにもさまざまな著書がある。

 「一昨年、軽い脳出血をやり、早く手当てをうけ軽く済んだものの後遺症が残り、声が出たり出なかったり、疲れやすくなったりしていますが、きょうは張り切ってます。」と、話を始められた。以下はメモから。


 1947年(敗戦2年後)生まれ。まず私の父の話から。父は1915年(大正4年)生まれ、父の家は自作農、そのまた父親が馬狂いというか、いい馬を買って来て育てて・・・というのをやって全然儲からず、今で言うとパンツも買えないような状況だった

 高等小学校までは出たが、中学校はお金がなく家でごろごろしていて悔しくて、憲兵になろう、出世できるからと勉強して試験を受けて合格した。

尊敬する父が謝罪の遺言?


   

 1947年、北京の盧溝橋の両端で撃ち合った、その盧溝橋事件の2週間後には憲兵に出動命令、父も天津に派遣された。

 母親はおじいさんが人が良すぎて騙されて家や畑を売ってお金がなく、従軍看護婦になった。給料のほとんどは、生まれ故郷の兄弟に衣服や靴を買って送った。

 両親とも貧しさから抜け出したくて戦争に乗って行ったと思う。
1945年に敗戦後、父はソ連軍に武装解除されてその後シベリアの手前までいったが脱走し、北朝鮮の境目で中国軍につかまって、中国の陣地を作る作業に従事させられ、また脱走して1年後に帰った。亡くなった後に伯父(父の兄)から聞いた話。

 農家の三男でもらえる田畑はなく、綿を2~3本売ってはもうけた金で洋品店をひらいた。

 私は3人きょうだい。兄たちは二人とも亡くなっているが、その3人と父母との生活。


   


 1986年父は肝硬変で亡くなった。自分で自分の体を分析して、自分としては死ぬ用意をしていた。私はその頃足立区で教員をしており、生徒の非行と格闘中。父を見舞いに病院に行くと、最期の方は点滴の跡だらけでどこに刺していいのかというほど。ふと眼を覚まして「綾子か」とごそごそと小さな紙切れに鉛筆で書いたものをよこして「これを墓に刻んでくれ」と言われた。「うんいいよ」といったら安心したのか眠ってしまった。

 「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として、天津、山西省、臨汾、運城、旧満州、東寧、等の憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加、中国人民に対し為したる行為は申し訳なく、只管お詫び申し上げます」


  ▽全文は下記のブログへ。
  
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2019.06.09

ママチャリの人力移動で東に西へ――元世一緒障害者スタッフ・山脇雅史さん――[2019年05月15日(水)の模様、2019年6月7日にUP]。

 


   



5月15日のすいごごカフェ。ゲストトークは元世一緒障害者スタッフ・山脇雅史さん。2年前にすいごごゲストとしてデビューしたときは、幼い時からの虐待体験と誰も気づいてくれない苦しみのフラッシュバックの尺度を「震度」で表現し、その癒しへのプロセスを「胎内回帰」と表現した。当時は教会やダンス、駅前スタンディングなどに参加していた。
 その後山脇さんの行動は拡がり、毎週ママチャリで霞が関の脱原発テント広場や新宿などに出かけるように。その中で昨冬の夜、4号国道で8トントラックに追突され、クモ膜下出血、大動脈損傷を含む重症で意識がなくなり「この世にいなくなってもおかしくなかった状況」。その運転手はトラックをやめ、もともとやっていたプロのギタリストに戻ったという。そして、いま山脇さんは毎週火曜日、野田に住むその人の家に行き、ロードバイクを貸してもらい二人で走ったり、彼のギターに合わせて自作のマリンバを弾いたりする。


   





 山脇さんの(火)以外の週間スケジュール:(月)プラネタリウム(年間パスポート所持) (水)伝道瞑想 (木)草加に行きNさんとわけわからない話をしながら歩く (金)モールウォーキングまたは霞が関 (土)Nさんと足立区、葛飾区の公園、踊りを含むことも (日)教会、フラッシュバックがひどいと行けなくなる
 これらのスケジュールすべてを公共交通や車の高速移動によらず、ママチャリによる人力移動で行う。山脇さんは点から点への移動という概念をもたない。あの時のように一瞬で命を失いかねない、生死の境目に自分はいる。だから走り抜け、安心できる場を求め続けて走るのだと語る。その行程の難所といえる地点に山脇さんは「うちゅうゆみこ」等、女性の名を付けている。胎内回帰ー子宮の中に戻る、永遠の現在を求めて走る山脇さんを、社会は「障害者」と呼ぶ。

 

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2019.06.09

認知症と共に――平野栄子さんと三村倫子さん――[2019年05月08日(水)の模様、2019年6月5日にUP]。

 


   



 5月8日のすいごごカフェは「認知症者とともに」と題し、春日部市介護相談員の平野栄子さんと三村倫子さんをゲストに。この介護相談員という事業は介護保険の地域支援事業の中の任意事業であるため、富山県では100%の市町村で実施されているが、埼玉県内では10%以上30%未満だと厚労省のHPにある。
施設を訪問し、利用者に会って話を聞いたりし、市民目線で役所等の機関に伝える役をしているという。あくまでも施設に受け入れる意向がなければ出向くことはできず、春日部市でもいくつかの施設は受け入れていないという。なお、越谷市は事業そのものを実施していない。
 平野さんの義母は、80歳すぎで認知症になり、嫁が料理を食べさせてくれないからと徘徊が始まり、つけで腹いっぱい食べて、今度はかかりつけの医者で下剤をもらい一気に大量に飲んでしまう。下駄で鉄線を超えて高速道路に入り、何度もパトカーで帰った。大腿骨を骨折して徘徊が終わった。商売をしていた人だから、ベッドにセンサーを付けて動くと「いらっしゃいませー」と音声が出るようにしたらご機嫌。平野さんのことは「太った看護婦」と言い「力があっていいわ」とほめた。100歳になり「お国が100万くれる」と思い込んでいて、町長たちが銀杯を持ってお祝いに来ても「いらない」と言っていたが、札束を用意して渡したら本当に喜んでくれたのでよかった。つけはお嫁さんが全部払いに回り、当時は大変だったが、どこどこにいたよという情報は入ったのでそこはよかった…と語る。
 

   


 三村さんは相談員になって間もなく5人で訪問したショートステイの施設で、上品な人がいてこの人は認知症でないなとみんなが思った。お嫁さんとの関係が悪く、食事も食べさせてもらえず、風呂も使えず、トイレは近所の施設に借りに行ってると聞き、気の毒に思い職員さんに話したところ、「あの人は認知症でとってもいいお嫁さんですよ」と言われ、愕然としながら学んだという。
 昨日は老人ホームで人待ち顔の男性に挨拶したら、「ここで待ち合わせて会議をすることになっていて待っているが誰も来ない」と。少し真に受けて「何年生まれ?」と訊くと、「市役所を退職したばかりだから62歳だ」と。隣にいたおばあさんは認知症でない人で、「とっくに80過ぎてるよ」と。よく見ると部屋の入口にも施設のテーブルやコップにもその男性の名前があり、外来客ではなく入所者だった。昔のことを聞くと、「農家をやっていた」、「1町やっていた。8俵ぐらいできた」などと話ができた。訪問時の姿勢としては、自分が施設に入ることになったらどういう生活がしたいかという視点で行っている。
 でも三村さんは自分は施設に入りたくないと思っている。いろいろな制度をうまく使えば、慣れ親しんだ地でなんとかなるかなと思っている。地域包括支援センターもあり、いざというときの駆け込み寺になるかなと思っているという。

 

   

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◆2019年4月の“すいごごCafe”


2019.06.09

若年性パーキンソンの橋本直子さんと二人暮らしの父・圭三郎さんも―――[2019年04月17日(水)の模様、2019年6月5日にUP]。

   



 以前このすいごごカフェゲストとして語ってくれた若年性パーキンソンの橋本直子さんと二人暮らしの父・圭三郎さんが4月17日のすいごごカフェにゲストとして登場。
 79歳の橋本さんの原風景は、母の実家の奥にある多高山の中腹の防空壕から眺めた軍都宇都宮の空襲。戦争だけはだめ。そんなことのない世にと語る。
 高校を卒業して三越に入社し、当初の化粧品担当から31歳になり美術部へ。片岡義太郎展、加山雄三展、マルグリット展などいろいろやらせてもらった。展覧会の時は朝から晩まで先生方と一緒にいて、一見気難しい人が多いがつきあってみれば同じだと感じる。楽しいことも厳しいこともあった。
 妻の七回忌を直子さんのリードで済ませたところだが、自分自身2014年の8月に硬膜外血種で二回倒れた。二回目は娘が入院中でだれもいない自宅でずっと倒れていて、二日後に隣のおばあちゃんが「だいじょうぶ?」と声をかけてくれて、「大丈夫じゃないんだよ」と言ったというが自分では覚えていない。左を下にして倒れていたので、いまだに左手がしびれている。
 体調に波がある直子さんが元気な時は料理をやってくれるが、そうでない時は自分が下手な料理を、直子さんに教えてもらい怒られながら作っていると語る。
 聞いていて「この世界の片隅で」という映画化されたマンガのタイトルが浮かんだ。こういう片隅の暮らしを「8050問題」とひとくくりに片付けないことこそ、戦争のない世への小さな道ではないのか。


 



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2019.06.09

NPO法人共に生きるまちづくりセンターかがし座理事長の吉田久美子さん―――[2019年04月10日(水)の模様、2019年6月5日にUP]。

   

 地域活動支援センターパタパタの施設長で、そのパタパタがケアシステムわら細工及びぶあくと統合してNPO法人共に生きるまちづくりセンターかがし座を立ち上げるや、同法人理事長にも就任した吉田久美子さん。2002年、わらじの会に登場するや、クミチョーとおそれられ、闇の軍団を操り、わらじの勢力地図を塗り替える存在かと畏怖された。事実、異例のスピードで当時の地域デイケア施設パタパタの施設長の座を確保し、さらにパタパタがケアシステムわら細工やぶてぃっく・ぶあくと統合する形でNPO法人かがし座を発足させると同時に、法人理事長に。
 4月10日、世一緒すいごごカフェで、霧に包まれていたその半生が明かされた。たしかに「闇の力」は存在した。ゲド戦記でいえば暗黒の地下迷宮から出たことのない大巫女の少女アルハのような。養護学校での12年間、地域の学校で学ぶために去った同級生もおり、高等部では地域の学校から来た生徒たちに「そんなに変わらないんだ」と驚いたりしながら過ごした。卒業後リハセンに入り、CADを覚えて在宅就労。不景気になり仕事も減り、家でぼーっと過ごした。チャットで知り合った男性と会ったら、鼻ピアスが汚れていた。別の人とつきあったのがきっかけで、家を出ようと思った。そこでゲドならぬ野島さんとの出会いがあり、一人暮らしのために稼ぎたいと思い、ちょうど地域連携のための拠点づくりを始めていたわらじの会の当事者職員に名乗りを上げた。そこで働く中で久美子はクミチョーになる。アルハがテナーとなったように。
 いまクミチョーは力を込めて語る。「できないことは介助者を入れて仕事する。私が働くことで周りにも障害者と働くことを意識させる。」それは、ゲドがテナーに言ったことば「とうとう私たち二人を「自由にしてくれたね、ひとりでは、だれも自由になれないんだ」と重なっている。(月刊わらじ 5月号表紙より)


 


     
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2019.05.04

映画と地域共生を語る―悪・異端とされたものとの共生とは――[2019年04月03日(水)の模様]。[作成日時 : 2019/05/01 20:58 ]

 
●田名部憲一さん(社福つぐみ共生会職員)

   


 はじめに

 次章以下で、田名部憲一さん(社福つぐみ共生会職員)が、4月3日世一緒すいごごカフェで「映画と地域共生」と題して行った語りを報告する。その前に、筆者の視点で全体を概観しておく。

 1.映画とともに育ち山ドキュの青春 では、子ども時代のエログロ探求やヒーロー物TVの中で、「悪いもの、異端なものに興味をもった」という点に注目する。 
 2.障害者と共に地域で生きる模索 では、障害者入所施設職員の体験、そして差別を見えなくした上で私生活を商品化する番組下請け会社の体験がベースがあること。
 
 3.サービス幻想をくぐり地域で一緒に動くを確認 では、サービス幻想に囲まれた委託相談の環境の厳しさと、さまざまな人々と一緒に動くことの大切さの語りに注目したい。

 筆者は、第2章の「共に地域で生きる」、第3章の「さまざまな人々と一緒に動く」は、第1章の「悪いもの、異端なもの」に寄せる心と通底することにより、独自の光を放ってくると考える。

旧優生保護法時代には、「悪いもの、異端なもの」を意味する「不良な子孫」の出生を予防するために強制不妊手術が行われたが、現在の母体保護法時代になって「新型出生前診断」の技術が普及し、強制ではなく自由意志的に「不良な胎児」の抹殺が拡大している。第3章の「さまざまな人々と一緒に動く」は、ともすれば「さまざまな支援者・機関の連携」にとどまりかねない。しかし、これを第2章の「共に地域で生きる」と同じく、時に「悪いもの、異端なもの」とされ、せいぜい支援の対象に据え置かれている障害者や病者自らの、時には周りを迷わせ惑わせもする生き方を含むせめぎあいとしてゆくことがキーポイントだ。

 筆者も就労支援センター業務を受託して痛感したことだが、委託相談の枠組みの中では、障害者は「不利益を被っているもの」として位置づけられる半面で、「悪いもの、異端なもの」とされる要素は抑圧されやすい。ある意味「障害者ポルノ」と言われる状況と重なっている。

 しかし、支援や行政の立場からすると「悪いもの、異端なもの」とされる当事者パワーが、時に支援や行政を揺るがし、そのありかたを変え、制度や地域を変える原動力にもなり、ついには正当な活動として認知されるようにもなったことを、筆者は過去何度も経験している。

 筆者は、かって田名部さんがかがし座で開いた映画上映会で、アメリカのホラー映画がベトナム戦争後の反戦・不戦の思想の中から誕生したことを知った。ゾンビもゾンビ候補もせめぎあいながら共に生きること。筆者の橋本宅泊り介助や絵日記の旅、さらには世一緒での諸活動は、まさにその一つの試みということもできよう。田名部さんの今後の模索にも大いに期待したい。

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◆2019年3月の“すいごごCafe”

2019.04.16

え?!  ナイチンゲール? 『ただそばにいる』精神看護から ――[2019年03月27日(水)の模様]。[作成日時 : 2019/04/14 17:58]
 
●高瀬勇さん(就労移行支援「世一緒」所長)

 
3月27日(水)、2018年度最後のすいごごカフェはせんげん台の就労移行支援「世一緒」で開催され、同事業所所長の高瀬さんがゲストトーク。タイトルは「ナイチンゲール『看護覚え書き』を読む」。

 率直なところ、このタイトルを聞いたとき、複雑な気持ちだった。かって「ナイチンゲール精神」は、看護現場で働く人々へのあまりにも劣悪な労働環境、医師の下女的な役割、時には侵略戦争への従軍といった実態を美化するために利用されてきたという印象が強くあったからだ。

 しかし、高瀬さんの語りが始まってみると、そうした文脈とは異なっていた。当日配布されたレジュメのタイトルは、「『看護覚え書き』を読み返しながら自分の看護を追体験する」となっていた。

 ちなみに、フローレンス・ナイチンゲールは1820年、イタリアのフローレンス(フィレンツェ)に生まれ、1854年、クリミア戦争で14人の看護婦と24人の尼僧からなる看護団を指揮。多いときは17日間で4000人の傷病兵が箱見込まれた。劣悪な衛生環境の下で次々と亡くなっていく。現地の軍医長官はナイチンゲールらの従軍を拒否したが、彼女たちはまず便所掃除から始め環境を整えることによって、傷病兵たちを元気づけた。陸軍省の査察を経て、、ナイチンゲールの報告通り衛生環境を良好に保つことが実践されると、死亡率は大幅に低下し、ナイチンゲールは「クリミアの天使」と呼ばれるようになった。
 「看護覚え書」、「病院覚え書」は1859年出版。1910年死去。


  
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「病気とは回復過程」とナイチンゲールは言った

 ナイチンゲールからの引用として、冒頭に掲げられたのは、次の有名な一節だった。 「すべての病気は、その経過のどの時間をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程であって、必ずしも苦痛を伴うものではない。つまり病気とは毒されたり衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力の現れである。」

 これを高瀬さんは、「自然治癒力」と受け止め、精神科医の故中井久夫が述べている統合失調症の回復過程についての考え方と一致するとみなした。

 同じくナイチンゲールからの引用。

 「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えることーこういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えること、を意味すべきである。」

 関連して、ナイチンゲールが  「患者と話すときは常に、患者があなたの顔を見ようとして無理に顔を捻じ曲げて苦しい思いをすることがないよう、患者の視野の中に座ること。」  と述べた部分について、中井久夫の弟子たちである、高瀬さんが青木病院で出会った医師たちは、患者が座っているときは必ず自分も座って話をしていたと回想する。

 ナイチンゲールの次の叙述、 「患者に何を食べさせるかを決める立場にあるひとの職務とは、あくまでも患者の胃の意見に耳を傾けることであって、『食品分析表』を読むことなどではない。」 についても、高瀬さんはかって働いた病院で、栄養士と調理師の戦いがあったと語る。栄養士は糖や塩分の摂取が過剰にならないよう味の薄い献立を作成するが、調理師は食欲がわかない患者のためにこっそり味付けをした。また、夜眠れない患者のために、眠剤の代わりに夜食のおにぎりを用意した。

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2019.03.29

自閉症へのまなざしの下―共に育ち・働き、逝った息子は ――[2019年03月20日(水)の模様]。
 
●長谷川美智子さん(草月流常任参与)


  


 3月20日に職場参加ビューロー世一緒で開催したLunch Cafe どっこいしょ & すいごごカフェのゲストとして登場いただいた長谷川美智子さん(草月流常任参与)のトークを、遅ればせながら報告する。
 「息子の自死と企業」というタイトルをつけて予告しておいたのだが、初めは「思い出すのがつらいから」とそこにふれずに語られた後、質疑応答の中で語られた。

 〇「自閉症」へのまなざしの中で「共に学ぶ」
 46歳で亡くなったご長男は、生きておられれば還暦で、橋本画伯と同じ。幼いころ公園に連れて行くとお友達の所へ寄ってゆかず、砂場の砂をつかんでさらさらと落としたり、水道の蛇口からぽたりぽたりと水が落ちるのを楽しんでいた。言葉は単語しか出ない。無理を承知で3年保育でお願いしたが、皆の端にはいるが、皆と一緒の行動はできない。先生も気を付けながら関わってくれた。NHKの教育番組で取材され放映されたこともある。その後間をおいて別の幼稚園に転園。乗り物に乗ってゆく所だったので、喜んで通い、今度は教室の中にずっといた。お遊戯会でも列の中にいて、ワンテンポ遅れながらだが、やってのけた、「あら?真似することができるんだ」と大喜びした。
 画伯の場合は就学免除にされてずっと家の奥に閉じこもらざるを得なかった同じ時期、教委に「わからなかったら二度、三度と言ってください」と話して、通常学級に入れてもらった。親としては「数字に強い」と皆に思わせられるようにということと、お金の大切さを教えた。計算も数字でするより実際のお金で教えた。買物に連れていき、1円足りないと買物ができないことを実践で教えた。ある時店で買物しているとき、買物かごを指して「お母さん、だめ!」と言う。「何がだめ?」と訊くと「超過してる」と。「お母さんの買物いつも計算してたの?」と訊くと「うん」と答えた。教室では息子は計算と書き取りを専門にやらせてもらい、飛び出すこともなく、休み時間には女の子たちがお姉さん役になり、楽しく過ごした。同じクラスに身辺自立ができない自閉症の子がいて、体育で着替える時15分たってもできないが、担任は「早くしなさい」と言わず待っていた。6年になると5分オーバー位になった。
 中学でも受け止めてくれる所を探したがなく、私立の学校に入れたらワルにたかられた。参考書買うからなどと金を持っていったが、金額が増えてきたので調べたらわかった。3人ぐらい被害にあっていたことがわかり、相手は退校処分に。「お母さん、これからもたかられることはありますか?」、「はっきり嫌だと言ったら、怖い目にあいますか?」と訊いた。世の中のいろんなことを覚えさせなければ、と思ってやってきた。

 〇26年勤続で家を建ててくれた
 都立高校定時制に行ったが、3年で中退し、草加の企業に勤めた。仕事はできるが、手が空くとじっとしていられずあたりを見て回ったりする。どうしたものかと定時制の時の担任に相談したら、とにかく定時制の卒業証書を渡したい、そして適性検査を受けて、向いている仕事をということに。そして、100人近い婦人服の縫製工場で正社員として働いた。布を裁断するため50~100枚ずれないように並べる難しい仕事で、1週間以上続いた人はいないという仕事を担当。26年勤続し、1400万円稼いで今の家を建ててくれた。温泉旅行にも連れて行ってくれた。さらに自宅の庭に、お母さんのためにと露天風呂まで作ってくれた。会社には、給料を振り込みでなく現金で渡してくれるようお願いしておいた。その封筒を持って、にこにこして毎月渡してくれる。「お母さんの食費です」と言うので、「これは誰が食べるの?」「ぼく」「じゃ、お母さんのじゃないよね」。二人称、三人称は難しい。
 この26年間は、橋本克己さんが家の奥から街に出て、「未確認迷惑移動物体」、「無名の有名人」となって街を拓き、画伯となっていった時期に一致する。

  〇「障害者にやさしい企業」の差別により自死
 2002年、4つ目の企業に障害者雇用枠で就職し働いている時に、息子さんは自死する。この企業は障害者が働くことに理解があるとされる所。母としてはこれまで会社に出向いてコミュニケーションをとってきたのだが、ここでは家族の出入りは一切禁止された。本人にも「社内のことは、一切お母さんに言うな」と言っていたという。
 亡くなる2週間前に、家で「露天風呂」、「露天風呂」と連呼し、機関車のように両手を脇につけて動かした。いわゆる常同行為を示したことに何があったのかと不安になった。「みんなとなかよくやってるの?」と訊くと、「おかあさんたちはやさしいよ」としか答えない。亡くなる前日は、真っ青な顔で帰ってきて、「いや、いや、いや」と言って部屋に閉じこもり、かってなかったほどだった。落ち着いたころに食卓に着いたが、それが最後になった。小学校の時から朝起こしたことはないが、翌朝起きてこないので、おかしいと思って部屋に入ったら亡くなっていた。
 葬式の時、会社の事務員さんが小声で、「リーダーは外国人で言葉がきつい人で」ともらした。お線香をあげに来てくれた人に「みなさんに感謝してました」と言うと、「何度か泣き出したんですよ」と言った。
 その後、障害者の問題を担当している7人の弁護士さんに相談し訴訟を起こしたら、悔しい事実がたくさん出てきた。勤務時間の変更で給料が減らされたりしたことは特にショックだったと思われるが、担当している荷物のひもかけ作業のひもを自分の首にかけるしぐさもしていたという。息子は殺されたも同然だと思った。しかし判決では、会社は自閉症だったことを知らなかったし、いじめや嫌がらせの事実も認められないと、とうてい受け入れがたい内容だった。2008年で裁判は終わった。
 障害者雇用促進法に企業の合理的配慮義務を含む差別禁止が盛り込まれたのは、それから5年後の2013年。


 

 
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2019.03.29

私が育ち働いた踏跡 ――[2019年03月13日(水)の模様]。
 
●発生川新一(けぶかわしんいち、世一緒障害者スタッフ)


  


 昨年から世一緒に来て、水上公園や除草、ポスティング、しらこばと笛絵付けなどで働き、すいごごカフェなどにも欠かさず参加している癸生川さんが3月13日、職場参加ビューローで開いたすいごごカフェで、自らゲストとして語った。読み書き計算は苦手といつも言っている癸生川さんが、66歳になって初めて人生を語るにあたり、なんと4枚もの文章を書いてきた。まず、それを紹介する。注は私が付けた。

 「東京都荒川区三河島で、両親と5人きょうだいでくらしてました。おやじがさけのんで、家でのんでよっぱらってあばれて、母とけんかして、母が家出して、三日かえってきませんでした。しっそうちゅうです。あねが荒川けいさつにそうだんしてくれました。自分が中学2年生のときです。あねとけいさつの人がきて、父とはなしあって、自分と弟はパトカーできたじどうそうだんじょにいきました。あねたちは、すみこみで、おてつだいさんにいったそうです。いもうとは千葉県の一宮のしせつにいったそうです。自分と弟はきたじどうそうだんじょに1ヶ月いました。それから、東京都の板橋区前野町のマハヤナ学園ナデシコ園に、しょくいんさんといきました。
 学園はまあるいたてもので、3階までありました。へやは5人。小学1年生は男女の子いっしょです。2年生から中学3年生までいっしょ、男女は別のへやです。朝は6時にきしょうです。おんがくがながれます。おきて、れいはいじょにいきます。30分おつとめをして、朝とよる、そうじをします。しょくどうでしょくじをして、学校にいきます。そつぎょうするまで、たのしいしょうたいがありました。ホテルオークラのしょくじ会とかのしょうたいがありました。西武園とオランダ園にもいきました。みなみいずのみんしゅくの人たちのしょうたいがありました。
 自分のへやの前田先生はびょうきでなくなりました。3年生のとき、あきかわキャンプにいきました。3年生だけです。かえったら、えんちょうせんせいがなくなりました。としでした。おばあさんです。その弟はおぼうさんです。弟さんのおてらにもいったことがあります。いろんなことがありました。
 中学校は、しむらだい4ちゅうです。43年にそつぎょうして、三共メッキやにすみこみではたらきにいきました。
 三共メッキは44年でやめました。おやじのところにいきました。おやじが牛のなめしやから、ブタのなめしやになりました。すみだくのアパートにすんでました。自分は、くまがいせいさくじょにつとめました。とけいバンドやです。そこでいち子さんという人とおやじがいっしょにくらしました。いち子さんのこどもは男4人です。かつしかくしばまたに家をかりました。しばらくいっしょにくらしました。
 自分はくまがいさんをやめて、今井さんというハンドバックやにつとめました。今井さんでは足立区もとぎ町にだいにこうじょうをつくりました。ここでダンス会とつり会にはいりました。しばらくあそびました。ハンドバックがうまくできないのでやめました。
  


 くつぞこのヤマキにつとめました。昭和54年から平成21年でやめました。ビルのそうじを3年やりました。年金をもらって、いまはよいしょにいます。

いやなおもいで

 がくえんでもんだいをおこして、もんだいじになりました。
 ざっそうがぼうぼうになってる山がありました。そこでたまにあそんでたので、いつものようにあそんでました。男の人と女の人がいました。男が、おまえなんだといって、なぐられました。女の人はやめなさいといって、とめてくれました。
 あまりいたかったので、ないて、おまわりさんをつれてきました。女のりょうをしってたので、女の人のりょうにいきました。みんなよんで、ならばせました。女の人がいたので、この人ですといいました。きがすんで、がくえんにかえりました。
 せんせいによばれて、おこられました。先生がこまったといってなやんでました。なぐられたといったら、先生にいってこいといわれました、おまえ、がくえんにいられなくなるんだといわれました。あのがっこう(注)も、がくえんもいっしょといわれました。先生にめいわくがかかるんだといわれました。べつのがくえんに行くのにてつづきがかかるので、その前におまえがそつぎょうしちゃうので、こまったといってました。おまわりさんは、みうちあつかいになるのでそちらできめてくださいと、いわれたそうです。おこられただけですみました。」  (注 がっこう:マハヤナ学園と同系列の巣鴨女子高等学校)

 癸生川さんは、この文章のほかに、前に求職活動で用いた履歴書や戸籍抄本なども持ってきて、それを元に、私が年表を作成して当日の資料に加えた。
 最近になって知的障害の手帳を取り、交通機関の割引等に利用しているが、60年余の人生は「非障害者」として育ち、働いて生きてきた。「普通の人」というのは彼のようなさまざまな困難や差別を生きる人生も含め、一人ひとり異なる生い立ちや労働・生活のありようをひっくるめた平均値でしかない。
 自ら書いてきた文章は、家庭崩壊から子どもたちが引き裂かれ、自身は養護施設で育ったその体験が中心だ。その後の人生はさらっと書いてあるが、別れた父とまた一緒に暮らしたり、靴底加工の工場で30年勤続し、その間に結婚し、息子を授かったり、その社長に250万の社内預金を使い込まれてしまったり…といった波瀾万丈の過程を生き抜いてきて現在がある。
 話し好きで花を育てるのが好き、お連れ合いが苛立って殴ってくるとそのまま鎮まるのを待っている。厚みを感じさせる人柄の背骨に、しっかりと刻まれた無名の歴史があった。


 

 
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2019.03.29

すみわけ進む街で「共に学ぶ」の現在を語る ――[2019年03月06日(水)の模様]。
 
●竹迫和子さん(どの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会事務局)


  
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困惑した中学校教員時代

 前回、養護学校(現在の特別支援学校)に勤めてそこから地域の学校で学ぶ活動に関わっていった話をしたが、その前に中学校で働いていた時のことは話してなかったので、今日はその話から始める。

 中学校に勤めたのは、福岡の大学を卒業して教員になった時。学生時代、教員を目指す者たちの集まりの中で、大学の近くの大きい被差別部落の人たちから「教員は差別者だ」と言われ、ショックを受けた。被差別部落の家庭環境は厳しく、家で教育する余裕もない。できない子、荒れる子のことを先生たちはわかろうとせず、「問題児」とみなしてしまう。そういう子供たちの側に立つべきだと言われた。

 そして、いざ自分が中学校に勤めるようになると、そんな余裕はない。自分の言うことをきかないと怒ってばかりいた。新任だと、若いし、体も小さいし、女だし、言うことだけはきつくてやることはやれないので、生徒に反抗され大変だった。でも、先輩の先生たちがフォローしてくれた。そこは今とちがう。

 そのころの印象としては、隣に養護学校があって障害のある子たちが通っていることは知っていたが、それだけだった。自分のクラスにはいじめられている子もいた。いじめられる子が逃げ込んできて、私がかばうと私にも反発してくる。あと、片マヒの生徒がいてその子も反発するので、私が怒ると、どんどん反発する。ほかの先生とはなかよくやっているのに、なぜと困惑した。

 あと、不登校の子もいた。家庭が厳しく、いじめがあったのかと思うが、その子の家に朝迎えに行くと、何回か出てくるがそのうち出てこなくなる。その頃はとにかく学校に来るようにという方針でやっていた。若いし一生懸命なので、余計なお世話をしていたのかもしれない。

 1975、6年ごろ、福岡では学校がすごく荒れていて、子どもが授業中に外へ出て帰ってこなかったり、給食にいなかったりして、言い合いになり、殴られたりもした。その時はまだ子どもが元気に暴れていた。女の子何人かのグループで殴られたことがあったが、最近その中の子から連絡があり、「あの時は申し訳なかった」と、毎年、年賀状くれたりしている。

 そんな自分をふりかえると、いま先生たちに「受け止めてください」、「長い目で見てください」と言っているが、自分がそこにいたらできないかもしれないなとも思ったりする。

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▽【前回のご案内】「竹迫 和子さん(元特別支援学校教員)」(2017年7月12日(水))の模様をレポート。  https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1350659455002691

 

 

 
  
 
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2019.03.12

環太平洋が照らす現在を生きる ――[2019年02月27日(水)の模様]。
 
●大熊真弓さん (生活クラブ生協越谷ブロック地域協議会)

  小見出しは以下。

 出会いは「うんとこしょ」
 集団自決、追放―戦争から生還した親たち
 ひとびとをつないできた海
 ネイティブ、ジェンダーとの軋みを生きる
 みんな一緒の学校で
 そして、いま、父母と埼玉で
 はるかな空を感じさせた語り

  
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 出会いは「うんとこしょ」

 生活クラブ生協越谷ブロック地域協議会とケアシステムわら細工、そしてNPO法人障害者の職場参加をすすめる会、仕事おこし懇談会inこしがやが連携して、うんとこしょー共に活きる街の介護人養成講座をスタートさせたのが、2017年4月。そして、講座そのものは終了したが、2018年度も、「うんとこしょ」は団体相互の行事等への乗り入れと、共同イベントとしての梅見会、折に触れた会議等として継続している。2019年度もこのペースで取り組まれる予定。

 その「うんとこしょ会議」を生活クラブ生協の越谷生活環内「ふら~り」で開くとき、いつも進行役を務め、地域協議会への報告書案をその日のうちに送ってくれる人が、2月27日のすいごごカフェのゲスト・大熊真弓さん。

 すいごごカフェの告知には次のように記した。「大学時代のニックネーム『おきょん』をメアドに。吉川に住み、生活クラブと教会活動をパワフルに進める現在の思いをたどり、故郷八丈島の生活文化に遡る。」

 山上たつひこ作「がきデカ」の名セリフ「八丈島のきょん」は、実際には同島植物公園に飼われているが、野生化して増えているのは伊豆大島や千葉県のようだ。私自身その程度の認識しかないまま告知文を作っていた。

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2019.03.07

雇用と福祉の谷間のロング アンド ワインディングロードで ――[2019年02月20日(水)の模様]。
 
●上田靖さん(障害福祉サービス事業所MINTのピアサポーター)


  
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 2月20日のすいごごカフェはせんげん台の就労移行支援「世一緒」で。毎月一度は就労移行・高瀬さんの企画立案で行うことにしており、今日のゲストは上田靖さん。この日は第3週にあたっていたため、すいごごカフェの前に、仕事おこし懇談会inこしがやとの連携による「Lunch Cafe どっこいしょ」恒例のキッチンとまとのカレー共食もせんげん台「世一緒」で開催された。

 ところで上田さんだが、今日は障害福祉サービス事業所MINTのピアサポーターとして登場いただいた。「私のリカバリー・ストーリーといってはなんだけど、いろいろ生きてきたことをお話しします。」と述べて語り始めた。筆者自身は上田さんに30数年前に出会い、一緒に動いたことがあり、その後も職場参加をすすめる会の集会などで時々会っている。だが、今日のようにまとまった話を聞くのは初めて。

 予めピアサポーターということで「支援するーされる」と暫定的にタイトルをつけて告知したが、あらためてその語りをまとめるにあたって、「雇用と福祉の谷間のロング&ワインディングロードで」というフレーズが浮かんできた。いわずと知れたビートルズの名曲の名に「雇用と福祉の谷間」をかぶせ。

 上田さんはてんかん発作を理由に中学時代いじめられた。が同じ発作を持つ友人ができ、一緒にブラスバンドに入ってパーカッションをやった。それは今でも盆踊りで太鼓を頼まれるなど、地域での役割にもつながっている。

 上田さんのてんかん発作は、精神運動発作で、一時的に意識がなくなりうろうろ動き回るタイプ。バイクや車の免許はだめだと親に言われ、大学卒業後も就職できず、1年生の福祉系専門学校に行って社会福祉主事の任用資格を取り、障害者施設で働こうと考えた。施設実習では普通に点数をもらえるが、就職となると「介護中に発作が起こったら危険」、「車の免許がなければ」と言われてどこも落とされた。

 それで、専門学校の先生の紹介でファミレスで働き始めたが、数ケ月後発作が起きてしまったら、社員からパートに格下げにされ、店からケーキ工場に異動。給料も月給から時給にされ、健康保険からも外された。仕事内容は皿洗いとか、焼き菓子を作った後の鉄板を削る作業だけになった。これが障害者の働かせ方か、ちくしょうと思い、数ケ月後に辞めた。これが雇用と福祉の谷間の入り口だった。

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  ◇障がい福祉サービス事業所 ミント
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ピアサポート研究会」のテーマ:「すいごごカフェとは」(2月27日)。

 
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 職場参加ビューロー世一緒では毎月第4水曜の11:00~11:50位の短い時間に、「ピアサポート研究会」を行っている。
 居合わせた障害者スタッフとサポーターが、日吉さんのファシリテートの下、その時々のテーマ(たとえば、家族とか薬とか)に関し、一言ずつ体験や意見を述べ合う。場合によっては二周、三周することもある。その発言はサポーターが、その都度ホワイトボードか模造紙に書き取ってゆく。
 これ以上時間を取ったり、討論の形になると、限られた人だけが参加する形になってしまう。短い時間だが、かえって全員がコンパクトに意見を出せるし、書き取っていることからも、自分や他者の意見を確認でき、言いたい要点が反映されていれば納得できる。世一緒の現状にはあっている。模造紙の記録が後日PCに保存している。
 今日、2月27日のテーマは「すいごごカフェとは」だった。記録は以下。多元的な一言たちの集積から、「すいごごカフェ」という「語り」と「聴き」と「手話」と時には「歌」等が交錯しあう場の論理が立ち上がってくる。
※   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 T:毎週ゲストを決めるのは大変だと思う。自分から話したいと思わないと思うが、話すことによって自分の経験をふりかえって、今までの悩みをさらけ出すことで、気持ちも整理できるかなと思う。自分はもうちょっとここに携わっての結果とか、これからどうしていきたいかわかってからやりたいと思う。ペルーの方とはこれまで接したことがないので、話が聞けてよかった。休憩時間の橋本画伯の手話タイムがいい。
 M:話していても、時々一方通行になる人も、中にはいた。ああ、こういう人も、いろんな生き方があるんだなと思った。JAXAの人の話は下町ロケットにもつながって興味深かった。
 N:自分は1月のすいごごカフェでゲストとしてトークした。準備期間はけっこうあったが、話していて、どうしても、ちゃんと伝わる部分と伝わっていない部分とある。Kさんのトークを聞いて、こんな仕事があるんだと、自分が今後の仕事を探すうえで一つのネタになった。
 H:第一に、知ってると思ってた人について、この人にこんなことがあったんだ、こんなこと考えてたんだという発見が毎回あったこと。第二に、障害者関係に限らずいろんな人にゲストに来てもらってるので、知らなかったことにも興味をもてるようになった。またゲストとして来てもらった人に街で会うと、向こうから声をかけてくれるような関係ができたのもすいごごカフェならでは。第三に、自分がゲストになってみると、いちばん伝えたいことを伝えるのがすごく難しかった。
 S:ピアサポート研究会は今日初めて参加。すいごごカフェは一回参加し、その時のゲストからピアサポーターの話を聞いて、もっと勉強したいなと思った。話し手によって、またテーマによって、気づかされることが多いので、今後も参加していきたい。
 K:自分がゲストになってしゃべった時、それまで小さい時の親との関係を言いたくなかったのが、話の成り行きで自然に話せた。あと長崎の施設での体験も話せてよかった。当時は通勤寮という名前だったがいまはグループホームに変わり、中身もちがってしまっているようだ。自分はすいごごカフェの時、いつもコーヒーを出す担当をしている。
 R:自分がゲストで仕事体験を話したとき、ダンプに荷を積みすぎて泥にはまってスリップして出られなくなった話をしたが、あれが面白かった。あと、ペルーの人が持ってきた衣装を着て興奮してたまらなかった。あれがほしい。
 G:すいごごカフェの報告がブログやfacebookに載ったのを印刷して活字で振り返ると、それぞれの語り手の思いがあらためてよくわかるなと思った。二度楽しめると思った。橋本画伯のミニ手話タイムなどを含む当日の雰囲気も好きだけれど。JAXAの北倉さんを招んだきっかけは、彼が家族ぐるみでだれもが暮らしやすいまちづくり実行委員会に参加していて、その実行委員会でJAXA見学の予定を立てていたけど、事務局長の西陰さんが倒れて中止になったのでその代わりにと考えた。
 O:ゲストで話したとき、来てくれる人にどうしたらわかりやすく伝えられるかを考えたが、ずぼらで準備できず、とっちらかった話になった。聞く立場としては、ペルーの人みたいに異文化の人と触れ合うのはいい機会だなと思った。
 A:いまある人にゲストを依頼して、聞き取りなどしている。すいごごカフェは2年やっているが、その前にも画廊喫茶としてこうしたトークの時間を時々持っていたことを思い出す。

◆2019年2月の“すいごごCafe”

2019.03.01

不幸自慢の部屋から ――[2019年02月13日(水)の模様]。
 
●幡本建祐さん(フラッシュバッグ研究者)


  


 職場参加ビューロー世一緒での毎週水曜の「すいごごカフェ」、2月13日のゲストは幡本建祐さん。私が初めて会ったのは、彼のお母さんがどの子も地域の公立高校へ埼玉連絡会の就学・進学ホットラインに電話してきたことがきっかけ。当時彼は定時制高校生だった。当時彼は家で荒れていて、中学の時の嫌な思い出をひんぱんにフラッシュバックては壁に穴をあけたり、道路で通りがかりの子どもをいきなり殴ってしまったりもした。両親に対しても「なんで早期に自閉症の治療をしてくれなかったんだ」と暴れたという。
 本人に初めて会ったのは、それから数ケ月後。その年のバザーが武里団地の中央商店街広場で行われ、物資を前夜に広場に運び込み、一段落して、警備のためここで夜を明かそうという時だった。通信制高校を卒業して間もなかった樋上さんと二人で彼を電話で呼び出した。自宅にいた彼が、そう遠くない団地の広場まで来るのに数時間かかった。当時の彼は今では考えられないほどの方向音痴で、あちこち彷徨った末、交番に道を聞いてやっと着いたのだ。
 数ケ月後くらしセンターべしみが開所し、克己絵日記も出版され、翌年から幡本さんは橋本画伯の介助者になったり、児童文学やSFを書く障害者・故糸賀美賀子さんの助手としてべしみの一角で「不幸自慢の部屋」にも関わり始める。
 すいごごカフェで幡本さんは、「不幸自慢の部屋」についてこう述べる。「亡くなった糸賀さんという車いすの女性が、人を招いて、自分がどういう風に不幸かを話してもらいました。睡眠障害で寝ると嫌な夢を見るとか、いろんな人が来て楽しかったです。」ちなみに幡本さんはそれまで「ぼくは世界一不幸です」というのが口癖だった。
 そして「だんだんに落ち着いてきて、荒れたりしないようになってきた。」と語る。
 中学校の時をふりかえると、「テストがすごく嫌いで、クラスメートがテストの話をしてるのがすごく嫌で」。「自分はテストの成績はよかったんですけど、能力の欠陥があるんで、『勉強さえできればいいってもんじゃないんだ』と言われました。そのうち成績が下がってしまって、それを周りから責められてきつい思いをしました。」
 定時制高校については、「ぼくのほうにも悪いところがあったと思うけど、いじめられた子とも後から仲よくなれたからよかった。その頃の友だちと会うんですけど、いまもカラオケに行ったりとかしてます。」という。高校時代を回想して、「他人の感情を読むのが苦手だから、傷つけること言っちゃって申し訳ないと思います。今はだいぶんそういうことは減ったと思うんです。」とも。
 初めてわらじの会に来た1995年のバザーは夏で、冬にはクリスマス会に初参加した。「ユニークバンドの演奏に圧倒されました。それ以来毎年参加しています。これからも参加したいです。」
 長くなったので、現在働いている会社について。「中古コンピューターの会社で、緩衝材代わりにする段ボールを組み立てたりしています。仕事はうまくいってます。会社でもわらじの会でも、いい人ばかりでいやな思いをすることがないので、今の仕事を頑張って、家族とか友人とかを大切にして生きていきたいと思います。」

 

 
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2019.03.01

閉鎖・移転にめげず――[2019年02月06日(水)の模様]。
 
●中原清さん(就労移行支援「世一緒」の利用者)


  


 職場参加ビューロー世一緒で毎週水曜に開催しているすいごごカフェ。2月6日のゲストは就労移行支援「世一緒」の利用者の中原さん。彼の語りはいずれブログでたっぷり再現したいが、とりあえずfacebookで「速報」(もう3週余り前だから遅報?)を。
 彼の労働人生は、つい最近まで会社を転々としながらも、今の就労移行にたどりつくまで、退職してもすぐ次の企業に就職するという形でずっと続いてきた。だから、タイトルにあるように「閉鎖・移転にもめげず」なのだ。そのパワーの泉となったのが中学卒業後すぐ入ったタイル工事会社。川越にあった親方の家に住み込みで早朝から夜まで、時には徹夜を続けながらの青春だった。
 タイル工事の段取りを親方の仕事を見て必死に覚えたこと。現場の片づけでダンプに制限の2倍も積み上げ、タイヤが泥にはまってスリップし、パワーショベルで押し上げようとしたがだめで、大きなダンプでワイヤーをかけ、やっと引っ張り出したこと。その他、たくさんのエピソードがあとからあとから溢れるように語られた。成人の祝いも社長や親方はじめ、職人さんたちとの酒盛りでやってもらった。
 彼がタイル工事で働いた10年余りはバブル期からその崩壊、その後の公共工事による景気とどんづまりの「失われた10年」という時期だったんだなと、あらためて実感させられるエピソードの鎖だった。最後は会社の仕事がなくなり、住み込んでいた親方の家に両親が車で迎えに来た。車に荷物を載せ、自分は電車で帰った。南越谷で降り、普通なら15分あれば帰れる自宅まで2時間かかった。通りがかりの家でタイル工事をしている職人さんと話し込んだからという。「お帰り。今夜は親と顔を合わせて一緒にゆっくりご飯を食べな。10代で親と離すのはかわいそうだ。よっぽど君はいじめられたんだな。」と言われた言葉がいまだに耳に残っている。それほどまでにタイル工事は人生であり、世界だった。
 彼の親の世代だったら、親方の下で一から修行して、手に職もって独立させてもらうといった人生が一般的だった。だが、息子の時代状況はそれを許さなかった。迎えに来た親は、「失敗したな」とつぶやいていたという。
 しかしながら、その過酷な青春が、その後現在まで続く長い冬の時代を、不屈のパワーで乗り切る土台を築いたのだなといま思う。
話し終えた翌日の本人の感想文。「きのうタイルやのはなしをしてだんどりをあたまにかんがえてはなしをしてけっこうはなしがいっぱいになりよかったです。大工さんのはなしをして現場でくぎをうったり、ダンプにごみをのせたりしてダンプがどもにたいやがもぐりこんでスリップするのがおもしろくてたのしかったです。ダンプどうしでひっぱるのがすごくていんしょうにのこりました。さいごにはなしをつづけてぜんぶよみあげるのがすごいつかれてたいへんでした。」

 

 
   「水辺の市」で販売講習をしています(2018年12月11日)。
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◆2019年1月の“すいごごCafe”


2019.02.23

童謡百年とバリアフリー社会―命がけのわがままを――[2019年01月30日(水)の模様]。
 
●たそがれ世一緒管理人・樋上秀さん


  

  

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 樋上さんは語る。

 「樋上は童謡は専門分野。中学校の頃、詩を書き始めた。童謡詩人をめざし、童謡の雑誌に投稿していた。中学生の時、同じ脳性マヒでもっと重度の詩人の日々工(たくみ)を知った。

 彼は和文タイプライターで詩を書いた。3行書くのに、足を使って、5,6時間かかって書いていた。

 その彼の師匠が、この1日に亡くなった哲学者の梅原猛。自分は京都にいた日々工と中学生の時、3年ぐらい文通して、詩を教わっていた。

 印象に残っているのは『樋上くんは、もっと言葉を覚えて、言葉に苦しみなさい』という言葉。いまでも苦しみながら、書いている。」

 「1918年に『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉は、自分の娘に文部省からのおしつけの子どもの歌でなく、心から歌える子どもの歌を作りたいと考え、詩は北原白秋、西城八十などに、曲は山田耕作や中山晋平などに頼んだ。

 さらに童話のほうは、芥川龍之介とか菊池寛をはじめとする有名な作家たちが書いた。

 『赤い鳥』は世界的な市民文化の草分けといえる。

 その後昭和の戦争期には軍歌が歌われたが、戦後サトウハチローが登場する。樋上が童謡を書くきっかけにあった詩人だ。サトウハチローの「リンゴの唄」から戦後は始まったと言われている。

 北原白秋も山田耕作もサトウハチローも、どうしようもない人間だが、童謡を書かせたり、作曲させると、世界的な童謡が生まれた。

 サトウハチローといえば『明かりをつけましょ ぼんぼりに』が春で、秋は『誰かさんが誰かさんが誰かさんがみつけた』。百年たった今でも、春と秋にそれぞれ歌われている。サトウハチローはどうしようもない人間だが、いまだに歌い継がれている。」

 
▽全文は下記のブログへ。
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2019.02.11

パプアニューギニアの原生林を守る人々を再訪――[2019年01月21日(月)の模様]。
 
●越谷の百姓・倉川秀明さん

  

  

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2019.02.06

ベルタさん、ミゲルさんと「アンデスの心」の旅――まだ入口(すいごごカフェ)――[2019年01月16日(水)の模様]。
 
●迫田ベルタさん・ミゲルさん(「アンデスの心の会」)

   


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2019.01.30

排除する社会でー転学・転職経て「共に」を探る―野村さんトーク――[2019年01月09日(水)の模様]。
 
●野村康晴さん(世一緒就労移行利用者)

   


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◆2018年12月の“すいごごCafe”


2018.12.31

バブル底辺労働を経て街であがき生きる――[2018年12月26日(水)の模様]。
 
●菅野 秀義さん(介護人、就労移行利用、GH入居者)

   

  12月26日、就労移行支援「世一緒」で行われたすいごごカフェの報告を、「移行利用者・菅野さん バブル底辺労働を経て街であがき生きる」と題して、私のブログにアップしました。内容は以下です。

   

 Ⅰ.晴れ舞台に立って
 Ⅱ.バブル景気の底辺で働いた日
 Ⅲ.介護との出会い そして街で―荒井さん、大坂さんから 
 いわゆる雇用支援業界でよく就労体験談が紹介されていますが、大部分が、よい雇用環境に恵まれて働いているとか、働き続けられなかった原因はここだあそこだといった「労働力」的な中身がほとんどのように思います。「ここに人間あり」の視点をさらに探ってゆきたいものです。

 
 

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2018.12.31

街の人・菅野さん(12.26すいごごゲスト)へのオマージュ――[2018年12月26日(水)の模様]。

   

 さきほどアップした「就労移行利用者・菅野さん バブル底辺労働を経て街であがき生きる」の補足資料として、菅野さんを雇って介護を受けている荒井さんの「さよならかんちゃん また来てごはん」と題するエッセイと、本人の語りを中心とした暫定略年表を、「街の人・菅野さん(12.26すいごごゲスト)へのオマージュ」と題して、ブログにアップしました。

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2018.12.22

風邪って インフルって――[2018年12月19日(水)の模様]。
 
●水谷淳子さん(谷中耳鼻咽喉科院長)


 12月19日のすいごごカフェ、ゲストは谷中耳鼻咽喉科院長・水谷淳子さん。この日は12:00から仕事おこし懇談会inこしがやとタイアップして毎月第3水曜に開催しているLunch Cafe どっこいしょの日でもあり、さいたまNPOセンター越谷支部の大家さんが手伝いに来てくれて、ワーカーズコレクティブ・キッチンとまとのカレーをコーヒー付き300円で提供した。今日はライスが古代米でとりわけ美味。キッチンとまとは弁当配達担当の人が自転車で転倒し、打撲傷を負ったとかで忙しい最中、持ち出しになりかねないカレー作り、ありがとうございました。

   

 さて、水谷さんの今日のお題は「風邪って インフルって」。パワポでなく、画用紙に手書きのプレゼン資料を見せながら、肩の力をぬいたトーク。連れ合いの私も、ああそうかと気づきがあり、面白かった。しょっぱなから「そうだよな」と思ったのは、風邪のことを医学部で学ぶことはないし、大学病院や大きな病院では風邪の患者さんは来ないので、下町の病院でのアルバイトで初めてそういう患者さんに出会ったという話。歴史的には遣唐使が「風邪(ふうじゃ)」という当時の中国医学の概念を持ち込んだのが初めで、あれこれ変遷してきて、いまの意味で使われるようになったのは、やっと明治になってからだそうだ。
 自然に質疑応答の形になって進行。風邪の医学的定義としては「自然によくなる上気道のウィルス感染」が妥当。それなのに「風邪は万病のもと」などと言われるのはなぜか。風邪のウィルスは200種類くらいある。プール熱を起こすアデノウィルスとか、手足口病のエンテロウィルスなども、風邪を引き起こす。
 熱はなんで出るのか?ウィルスが侵入すると異物と体が判断しいろんな機構が動き出す。体温調節中枢に働きかけ、体表面の血管を収縮させ血液の流れを少なくし、汗が止まり、筋肉が収縮して、熱が漏れ出ないようにするので寒気がしたり、熱が上がる。熱が高くなるとウィルスをやっつけやすいので、ここで熱さましを使ってしまうと逆効果になる。だから「風邪かなと思ったらすぐナントカ」というCMに乗ってしまうとかえって風邪をこじらせる。


   


 ここで「熱は上げた方がいいんですか」と質問あり。熱い風呂に入るのはどうでしょうと。たしかに風邪で熱が上がったからといって、それで脳炎になったりはしない。ただ熱い風呂に長いこと入っていると体が消耗しちゃうから、非常識なことはしないほうがいいとの回答。
 さきほどの「風邪は万病のもと」というのは正しくない。正しくは風邪とまぎらわしい病気がいっぱいあるということ。だから1週間様子を見ることが大事。実は肺炎だったとか、腎盂腎炎だったとか、蜂窩織炎だったとかいうことがある。風邪から病気が出てくるのではなく、最初にはわからなかったということ。風邪の薬は基本的にない。売薬の風邪薬は鼻汁を止めたり、熱さましで錯覚させる。そして病気の経過もわからなくしてしまうから、他の病気との判断もつきにくくなる。風邪は自然によくなる。
 新型インフルエンザも騒がれたが、あれも風邪。インフルエンザワクチンや抗インフルエンザ薬が宣伝されたが、その効果は証明されていない。これまでに唯一きちんとした調査が行われたのは前橋医師会による疫学的調査。ワクチンを止めた前橋市とワクチンを接種した高崎市の子どもたち全員の統計を取った。インフルエンザにかかった子どもの数はちがいがなかった。また、血液をもらって抗体を調べたら、発病していない子どもで抗体価が高い子が発病した子の倍から1.5倍いた。その調査で無効なことが明らかになり、全国的にワクチンをやらなくなっていたところに、新型インフルエンザということで一挙にワクチン製造が盛んになった。
 いま会社や保育所で、半強制的にワクチンを打てと言い、医師の証明書をもらって来いという状況。インフルエンザになった患者さんに訊くと、「ワクチン打ったけど、あれ効かないですよね」と言う。自然にかかった年輩の人たちは免疫があるからほとんど病気にならない。年が経つにつれて免疫が弱まるが、不顕性感染の人たちが社会にたくさんいると、「ブースター効果」といって免疫がまた強くなる。帯状疱疹が数年前からすごく増えているのは、子どもたちが水疱瘡のワクチンをみなやっているので、大人の免疫をまた強くするブースター効果が作用しないため。いまは赤ちゃんの時から何十種類ものワクチンをやっているので、これからの社会が心配。
 参加した人々からの体験や質問などとかけあいながら「笑点」のような今日のすいごごトークだった。

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2018.12.18

共生の現在を探る――[2018年12月12日(水)の模様]。
 
●山下 浩志(NPO障害者の職場参加をすすめる会)


 12月12日の世一緒すいごごカフェは、べしみで月刊わらじ製本作業があることもあり、ゲストの割り振りがめんどうだったので、私自身がゲストトークをした。先月佐藤秀一さんと一緒に大学生たちに発表した「共生の現在を探る」を用いた。写真は例の如く、元編集者でもあるサポーターの直井さん撮影

   

 この日の参加者の多くが世一緒の障害者スタッフだったので、彼らに問いかけるかたちで話した。佐藤さんは小・中学校で他の生徒より体が大きく力も強かったが、脳腫瘍の手術をして病院通いもあり、友達も少なく引っ込み思案の子だった。小学校の卒業文集では中学に行ったらいじめられると思うががんばると思っていること、担任の先生が「友達を一人作れ」と言われたことが思い出に残っていると書いていた。そして中学卒業後、小5に脳腫瘍で入院した時出会った同年齢の友達の世話で就職した。17年間普通に民間企業で働き、手帳を取ったのは不況で工場移転で解雇された後のことだった。他の参加者のうち4人が、「障害者」としてではなく企業で働いてきて、中にはつい最近手帳を取った人もいた。障害者になると支援は受けられるが他の人々と別々に分けられる。世一緒もその一つだ。参加した一人一人に、他の人々にまじって働いていた時はいじめや差別もあったろうけど、いいこともあったでしょと訊くと、口々にうん、いいこともあったと言いかわす。きめ細かな支援が整い過ぎている現在、こういう体験をしっかり掘り起こし伝えてゆく必要がある。
 つぎに橋本克己さんが交通渋滞を起こしている写真。「迷」い「惑」いながらの共生というタイトル。今日は製本作業に行っているが、いつもすいごごカフェでミニ手話タイムを担当している橋本さんの生い立ちを写真で。就学免除で家に一人ぼっちの経験は誰もない。19歳で街に出たが、その直前の写真の表情がこわばっているのを確認。ちょっとしたことでパニックになり、家族を傷つけたり、家を壊したことを、後になって本人が描いた絵。暴れるしかなかった橋本さんが、手動チェーン式車イスで「家出」ができるようになり、街でさまざまな老若男女に出会い、変わっていったこと。いつも渋滞に巻き込まれるタクシーが、無線で「車いすのあんちゃん出現。各車迂回願います。」と連絡して一斉に対応するなど、街も変わっていったこと。「障害」は〇〇ができないということばかりでなく、迷惑をかけながら一緒に生きることで、周りを、世の中を変えてゆくことでもあるんだと伝えた。
 先月の大学での授業の機会を提供してくれた沖山稚子さんから、学生たちが新鮮に受け止め、それぞれに刺激的なリアクションを書いてくれているという紹介もあった。
 なお、15日に昔70年安保闘争を共にたたかった友人たちと小さな勉強会をやり、そこで同様の報告をした時に、私がわらじの会編「地域と障害ーしがらみを編み直す」(現代書館 2010)で書いた「障害の地域モデル」について図示したところ、障害や福祉の枠組みを超えたテーマとして前向きに受け止められた。


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第2期すいごごカフェ&ゲストトーク!





2019.01.24


 2019.01.24



  2018.12.20
 すいごごカフェ12/19~1/301時半のゲスト
   特に書いてないのはすべて越谷の世一緒で行います。


 12月19日(水)12:00~Lunch Cafe どっこいしょ
 13:30~すいごごカフェ
 水谷 淳子さん(耳鼻咽喉科開業医)
 「風邪って インフルって」
 「インフルエンザは風邪じゃない」と国を挙げてPRされ、当然のようにワクチンが。でもそもそも風邪ってなに?ワクチンは必要なの?42年間の地域医療体験から。

 26日(水)この日の会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
 菅野 秀義さん(介護人、就労移行利用)
 「都庁は俺が建てた」
 先月のすいごご亀田さんの語りに誘われ、80~90年代の工事現場での労働を語り始めたので、急遽ゲストとしてお願いすることに。介護人としての働きぶりも。

 1月9日(水)
 野村 康晴さん(就労移行利用者)
 「小売業界で働いたら」
 中学までは近所の学校、特支学校高等部を経て、国リハ、通所授産へ。施設外授産の経験から小売業界へ。がんばり精魂尽きて初めて就労支援と出会う。そして…

 16日(水)
 迫田 ベルタ夫妻(アンデスの心)
 「アンデスの心とは」
 ペルーから働きに来日し、そこで出会って結婚。地域にさまざまなつながりをつくり、時々帰っては物産品を仕入れて、地域のお祭りに店を出す人気者の素顔

 21日(月)…水曜ではありませんのでご注意を。会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
 倉川 秀明さん(有機農業生産者)
「パプアニューギニア」
 かってJICAから派遣されて住民たちと暮らしたあの地へ、先日再訪した報告を中心に。現在の有機農業生産者人生はアジアの農民たちとの出会いから始まった

 30日(水)
 樋上 秀さん(たそがれ世一緒管理人)
「暮らしやすい街って」
 誰もがくらしやすいまちづくり実行委員会の代表を務め、避難所一泊体験等にも取り組んできた樋上さんにとっての「くらしやすいまち」とは。


 2019.01.24

 
2018.12.19


2018.12.19

  





(2017.11.23)

分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの

  《ブログ》共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す
    http://yellow-room.at.webry.info/201711/article_4.htm


 ▽NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が世一緒で今年度通しで開催している「すいごごカフェ」や生活クラブ他と連携の「うんとこしょ―共に活きる介護人養成講座」等の活動と、来年度立ち上げを予定している就労移行支援事業「世一緒」の関連について、2004年のNPO法人設立、翌年から10年間の越谷市障害者就労支援センターの運営受託の経緯と意味にさかのぼってのまとめを「分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの」と題して、ブログにアップしました。

 
 
  [出所]山下浩志さんのfacebookより。
   https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1460925790642723



(2018.06.07)
▽毎回、13:30~15:00 
 ◇ご興味のある方はぜひどうぞ。なかなか聞けない話が多いですよ。
 コーヒー 100円(カンパ制)


▽「ランチカフェどっこいしょ」[第3水曜日]は300円のカレーライス、13:30~のゲスト・トーク。
 ▽問い合わせは世一緒まで 048-964-1819(TEL・FAX)
             shokuba@deluxe.ocn.ne.jp






 


店内イメージ

世一緒の地図店舗情報

NPO障害者の職場参加をすすめる会

〒344-0023
越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101

TEL.048-964-1819
FAX.048-964-1819













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