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障害のある人もない人も共に生きる職場・地域を NPO障害者の職場参加をすすめる会

電話でのお問い合わせは048-964-1819

〒344-0023 越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101

ご用命は“NPO障害者の職場参加をすすめる会”へ。

◇長期不況で地域の困窮や孤立が深まっている現状に対し、雇用と福祉の狭間の身近な仕事おこしを目的に、福祉施設利用者や在宅の障害者の社会参加を兼ねて、本人たちによる定期的な事業所訪問や困窮者等をまじえたグループ・アルバイトを実施し、その経過をホームページやシンポジウム、コミュニティ・カフェ等で発信し、先進地の見学・交流も行って、共に働くすそ野拡大をする事業を推進。

information新着情報

◆2019年09月07日
▽2019年07月10日(水)、「筋肉少々帯 戦え!何を⁉ 人生を!――坂西勇輝さん(パタパタに週3回通っている)」をUP。
◆2019年09月07日
▽2019年07月03日(水)、「ロボトミーと傷痍軍人、また何か隠すのか?オリンピック――日吉孝子さん(世一緒ファシリテーター)」をUP。
◆2019年08月12日
▽2019年06月26日(水)、「主婦として地活メンバーとして――坂田幸子さん(ふれんだむメンバー)」をUP。
◆2019年07月31日
▽2019年06月19日(水)、「「傷抱きしめ介護現場で」――元世一緒スタッフ、いま介護現場で働く田辺雄太さん 」をUP。
◆2019年07月11日
▽2019年06月12日(水)、「「梅里雪山の巡礼の道で考えたこと」――滝沢恵子さん(元ムーミンママ) 」をUP。
◆2019年06月29日
▽2019年06月05日(水)、「においを出し漂い1ミリずつ動く――当事者としての苦しみを他者の喜びに、山谷 理さん 」をUP。
◆2018年12月11日
「これまでの“すいごごCafe”一覧」をUP。
◆この間は、次のページへ
◆2018年1月30日
「すいごごCafé」のページをリニューアル。。
  △下線部分をクリックしてください。当該箇所にリンクします。
 



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毎週水曜日午後に開催! 



2019.09.01
[2019年07月05日(水)からの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。

2018.12.23
[2018年12月05日(水)からの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。


[2017年12月20日(水)から2018年12月05日(水)]までの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。


[2017年4月5日(水)から2017年12月06日(水)]までの「すいごごCafe」は(ここをクリックして)読んでください。





   


2019.07.24
すいごごカフェ7/31~9/3  1時半のゲスト

7月31日(水)荻野 好友さん(くらしセンターべしみ通所者)
「国境なき障害者とは」
聴覚障害で片まひー居場所探り衝突を繰り返し聾学校を転々した子ども時代を経て、さまざまな障害のある人ない人と出会いつながる現在のくらしを語る。

8月7日(水)
塚田 正行さん(世一緒に来始めた人)
「街の風に身を委ねて」
「失われた十年(二十年)」さまざまな職場を巡った後いつしか「ひきこもり」とみなされ、母の知人、相談機関を経て世一緒に漂着。旅路の風景と思索を語る。

19日 (月)
倉川 秀明さん(有機農業生産者)
 ;会場はせんげん台イオン並びの就労移行支援「世一緒」
「パプアニューギニア戦跡の旅」
奪われてゆく熱帯雨林を守る人々が住むパプアニューギニアは欧米列強と日本が支配をめぐり戦争した地。現地の高校生たちと5泊6日かけ戦跡を歩いた。

28日 (水)
山下 浩志さん(当会事務局長 )
「総合県交渉どこからどこへ」
翌日に迫る総合県交渉―「人は福祉と特殊教育によって生きるにあらず」を掲げ1978年スタート。大阪、兵庫等しか例のないこの交渉はどこから来てどこへ行く

9月3日 (水)
友野 由紀恵さん(世一緒金曜当番スタッフ)
「介助者たちと街で生きる」
重度障害者が街で生きるとは介助者とのつきあいをぬきにできない。介助者も街の一部。されど介助者でないさまざまな人々のいる街。せめぎあう日々を語る。

すいごごカフェ/Lunch Café どっこいしょ:
 すいごごカフェ(第1、2、4、5水曜)もLunch Café どっこいしょ(第3水曜)も、NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が主催する誰でも参加できるひろばです。
 Lunch Café は12:00からキッチンとまとのカレー(コーヒー付き300円)が食べられます(要予約)。
 どの日も13:30~15:00 ゲストトークがあります。街で生きる障害のある人ない人、いろんな人が語ります。気軽にお立ちより下さい。人に歴史あり、街にドラマあり。 
048-964-1819(世一緒)






 

◇(山下浩志のfacebook・ブログより)

◆2019年7月の“すいごごCafe”



2019.08.12

筋肉少々帯 戦え!何を⁉ 人生を!」――[2019年07月10日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年09月01日]

 
●坂西勇輝さん(パタパタに週3回通っている)

   

 通常学級で 自分以外は敵だと思った

 全身の筋肉が劣化していくデュシェンヌ型筋ジストロフィーという病気。現在、大袋で一人暮らしをしながら、パタパタに週3回通っている。

 小学6年から車いすに乗るようになり、その前は誰とでも仲良くしていたのに、自分以外は敵だと思うようになった。仲のいい友達もいたが、自分は障害者で相手は健常者なのだと、自分から線引きしてつきあっていた。今思うと恥ずかしい。できないことを介助してほしいと頼めるような関係を作れたらよかったと後悔している。

 学校では支援員だけに介助をしてもらっていた。年上の人と話すのは楽という感じもあった。昇降は給食用エレベーターを使った。特に楽しい記憶もなく卒業した。

 中学に上がるとき、教委に相談したら養護学校を探したらどうかと言われ、母が私に養護学校でもいいかと聞いたので、普通学校がいいと答えた。母から聞いたところによると、知人から勧められ、創価学会に入って公明党の議員さんから教委に話をしてもらったら、手のひらを返したように教委から中学校を見学して学校を決めましょうと連絡がきたという。今思うと「忖度」という行為。中学には給食用のエレベータのほかに人が乗るエレベーターがあった。

 中学では科学部に入り、3年の時は副部長を務め、部内での仲間もでき楽しく活動した。委員会は視聴覚委員会(放送委員会)を3年間続け、校内放送や体育祭の実況などで活動し、放送機材を使うのがとても楽しかった。勉強はあまり成績がいい方ではなく、当時母子家庭で家計が大変な中、高校受験前に母に頼んで塾に行かせてもらった。今でも感謝している。

 高校は岩槻商業で、前に卒業した車いすの先輩が一生懸命やってくれたので、受け入れはよかった。上級生にも車いすの人がいたが後輩にはいなかった。部活は科学部に入ったが、同級生がいなかったのであまり楽しくなかった。高2の冬に動画配信サイトで三味線の演奏を見てかっこいいと思い、三味線を習い始め、文化祭で演奏した。三味線の先生も一緒に弾いてくれて、とても楽しかった。友達はいたが、どこかで線引きをしてつきあっていたので、孤独だった。いまも連絡をとってつきあっている友達もいる。介助をお願いできるような関係になれたらいいなと思っている。

   

 
 障害者雇用 だが職場でも家でも追い詰められ

 高3になり、進路選択は就職にした。学校に来ている就職先には障害者雇用をしている会社がなく苦労した。
 越谷ハローワーク経由で高校に連絡をくれた会社があり、吉川市にある特別養護老人ホームだった。いい会社だなと思い、就職試験と面接を受け、採用された。施設開所1ケ月前に勤務が始まった。経理事務を担当した。

 開所前の1ケ月はよかったが、開所してから会社の対応が豹変した。雇用契約書を交わすとき、1ケ月前から働いていた職員が、募集内容と違うと言い始めた。上の人と話をしたら。文句があるならやめてもらってけっこうと言われたらしく、明日から来ませんと言い、退職届を出してやめてしまった。それも職員たち3人が同時に退職したので、この会社は危険だなと思うようになった。

 自分も契約書を交わすことになったが、週休2日と書いてあったのに、休みを週3日にしてくれと言われた。身体的負担が大変だと思うから配慮したという。当時は実家暮らしだったので、週休3日でも何も苦労はなかったので、まあいいかと思ってしまった。2年後に週休2日に戻さないかと言われたときは、いまさら言われても遅いと思った。いろいろなことがあったが、けっきょく4年間その会社で働いた。

 ずっと母子家庭で育ってきたが、働き始めた後の19歳の時、母が再婚した。再婚してすぐ相手が豹変し、母がもちあげないときげんが悪くなり、私が否定的なことを言えば怒り、黙っていると会話がないと文句を言うようになった。職場でもストレスを抱え、家にいても安らぐことができず、精神的に追い詰められた。キレないようにがまんするのが耐えられなくなってきて、一人暮らしを決意した。母は、がまんできないならいいよ、やりたいならやればと、軽い感じで背中を押ししてくれた。


  ▽全文は下記のブログへ。
  
   (山下事務局長のブログへ)

 

 





2019.08.12

ロボトミーと傷痍軍人、また何か隠すのか?オリンピック」――[2019年07月03日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年08月12日]

 
●日吉孝子さん(世一緒ファシリテーター)

   

 ロボトミー手術のため一家で上京した時の光景から

 1954年、北海道で最初(1879年~)の官営幌内炭鉱に生まれた。脳性まひ。その町から出たのは、障害者手帳を取るために2回札幌へ行った時しかない。5歳の時、ロボトミー手術を受けて機能訓練すれば障害が治るという話が東京から流れてきて、親が全財産をかけて手術を受けさせてやるといって、1959年11月、おばあさんの背におぶわれて、東京の瑞穂のおばの家に一家で出てきた。
 その時の旅で覚えているのは、昭和新山の煙。そして上京して上野駅に降り立った時、傷痍軍人が二人いて、一人は松葉杖をつき、片足が膝のあたりからなくて、ゲートルを巻きアコーディオンを弾いている。その横にもう一人が四つん這いになっている。それを見たとき、なんとも言えない気持ちになった。あれはなんだったのかとずっと考えているが、表現する言葉がみつからない。見てはいけないものを見てしまったという感じ。それでいて目がはずせない。戦争のことも世の中のことも何も知らなかったが、その人たちの存在が、すごく子どもにも屈辱的な感じだった。それが、ずっと頭から離れない。東京の光景がそこから始まっている。

   

 
 連行され前線にかりだされ捨てられた人々だった

 その後、人の集まる場所に行くと、やはり松葉杖の片足がない人と、もう一人が四つん這いで、その前に缶が置いてある。その人たちの横に立看が立っていたような記憶もある。その人たちがなんでそこにいたのかは、それから22、3年経った後になって、初めてわかった。
 1981、2年当時、子どもを産んで、高島平の都営住宅の8号棟に住み生保を受けて暮らした。保育園のママ友ができ、話す機会があった。その人は朝鮮総連所属で、その人に傷痍軍人の話をしたら、急に真面目な顔になって、「あなたたち何だかわかってる?」と訊く。「あの人たちは第2次大戦で大陸から連れてこられて、負傷したにもかかわらず、その人たちの補償を日本はしない。日本の国への抗議を示すためにそういうかっこうをして、人の集まるところへ行って、自分たちがどういう目にあっているかを伝えてるんだ」と言う。その人たちはアコーディオンを奏でるが、話は一言も発しないので、わからなかった。その正体がわかって、20数年ぶりにショックを受けた。


  ▽全文は下記のブログへ。
  
   (山下事務局長のブログへ)

 

 


 

◆2017年8月の“すいごごCafe”
   ▽「日吉孝子さん。現在は世一緒の運営委員」(8月23日(水)の模様)
  文章と写真は、世一緒サポーター・直井さんです。
  https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1385250324876937?pnref=story

   
   





◆2019年6月の“すいごごCafe”




2019.08.12

主婦として地活メンバーとして」――[2019年06月26日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年08月12日]

 
●坂田幸子さん(ふれんだむメンバー)

   

 何者かになりたくて生き急いだ日々の果てに他者が ー6.26坂田幸子さん(ふれんだむメンバー)トーク「主婦として地活メンバーとして」より。


 簡単な自己紹介:
 社会福祉法人じりつから来た。せんべいを食べて前歯を折ったので、マスクをかけたままで。好きな人は1.だんなさん 2.ふなっしー 3.岩上さん(代表理事)
コントロールが大変だった子ども時代:
学校では内気で泣き虫でいじめにもあった。靴を隠されたり、悪口を言われたり。母が先生に言うと、チクったろうとよけいにいじめられたので、親にも言わなくなった。家では両親にはっきりものを言っていた。高校に行ってまでスケバンに囲まれるのはいやだから、家にいる時の元気な自分を高校でも出した。内面は泣き虫なので、コントロールが大変だった。早く大人になりたかった。


   

 
 統合失調症を発症するまで:

 高校を出て、昼間はエステで、夜はスナックで働き、1、2時間しか眠らずがんばった。草加で1年半か2年ぐらいやって、ちょっと休んで大宮で3年半。エステはバブルがはじけそうな時代に就職したので、つぶれちゃうからと言われて売り上げに貢献したが、続かないなと思ってやめた。次に整体を習って、親戚の人に金を用立ててくれないかと言ったら「馬鹿なこと言うな」と言われた。8:30から20:00の仕事をこなした後スナックで21:00から3:00まで働いたら意識がなくなった。22歳で統合失調症を発症し、20代はいろいろな病院に3ケ月、7ケ月とずっと入院だった。その間に仕事を探し、また調子が悪くなって入院のくりかえし。ビスケットを盗ったのが分かって保護室に入れられたこともある。暴れていたから拘束帯をまかれた。人権侵害だと思う。

 父親との確執と入院のくりかえし
 
 父親はすごく仕事をかえて、いやだった。「かあちゃん、休むよ。店長に電話しといて」とよく言ってた。なんで休むんだと思ってけれど、自分も社会人になって同じことをやった。店長は「なんで本人から電話が来ないんだ」と言っていた。花のエステティシャンだったのになんでこんな病気になったんだ、早く死にたいと思って、いつも手に包丁を持って暴れていた。すると父親からやめろとパンチが来る。なんだよと反撃するとビンタが来る。私も皿を投げる。コップを割る。私は感情が昂揚しきって大変だし、父親もアドレナリンが出て。そして私はどういうわけか意識を失う。そして救急車を呼ばれて入院。それをくりかえしていた。しょうがないから病院でお世話になろうねと。父親は働かないから生保暮らしで、生保なら金の心配がないから私を入院させたんだと思う。


   




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2019.07.31

傷抱きしめ介護現場で」――[2019年06月19日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年07月31日]

 
●元世一緒スタッフ、いま介護現場で働く田辺雄太さん

   
 6月19日(水) Lunch Café どっこいしょ& すいごごカフェ ゲストトーク:田辺雄太さん(障害者介護支援員) 「傷抱きしめ介護現場で」 家庭にも学校にも居場所がなかった子ども時代を経て越谷の祖父母の家へ。就労、離職後おやじ狩りで保護されたのち世一緒へ。ジグザグを経て介護現場で働く心は。


   


  しんどいがなんとか楽しく働き続けられてる

 田辺雄太さんは1988年生まれというから、今年で30歳を迎える。現在は居宅介護合(社福天恵園)で障害者宅へ行って入浴を中心とした介護(時には1日に5件)をしている。また短期入所の泊り介護も行っている。休みの日の楽しみはメイド喫茶。4千円位でカウンターでメイドさんと話しながらお酒が飲める店へ行く。そのほか友達とつまみが安い店に飲みに行ったり、カラオケしながら飲むこともある。少し年下の友達とが多いが、時には職場のおじさんと仕事の愚痴を言い合いながら飲んだりもする。
 実は田辺さんはこの職場で前も働いていたが、仕事に行けなくなりそのままになっていた。前は介護だけでなく事務仕事もあり深夜1時までPCに向かっていたりして疲れ切った、今度は介護だけなので楽になった。職場復帰のきっかけは、買物に入った店で職場の看護師さんに偶然出会い「戻ってこないの」と声をかけられたこと。最近、当事者の親御さんが入社して、いろいろ提案してくれて働きやすくなったという。
 決して安定した仕事とはいえないけれど、友達や同僚とのつきあいを通して、しんどさを癒しながら働き続けている田辺さん。今回のタイトルにある「傷」について語る。

   


 幼いころからの「傷」をひきずって生きてきた

 田辺さんには、ずっと別れたままの母と妹がいる。母はパチンコが好きで、スロットもやった。自分が酒好きなのも母親譲り。実の父親とは自分が生まれてすぐに別れてしまった。後に義理の父親に連れられて、実の父親のところに行ったら、目が点になった。なんとフィリピンの人と再婚し、子どもが10何人もいた。アパートの二部屋続きで住んでいた。これがみんな義理のきょうだいなんだよなあと思った。日本じゃ暮らしていけないからフィリピンに行くとか話していた。たいへんなんだなと思った。がんばってるなと。
 母は浦和の伊勢丹のレストランで働いていた。帰ってくるのが遅いから、義理の妹に夕飯を作るのは田辺さんの役目だった。チャーハンとかしか作れなかったが。ガスを使うなと言われていたが、ちょっと使った。
 「小学校は普通学級だが勉強しなかったです。小学校の時から荒れて孤立してましたね。先公をぶんなぐってました。」と田辺さん。「自分の場合、自分が生まれてすぐ離婚しておやじがいなかった。その後妹の父親と再婚したけど、相手が母親に暴力をふるって、自分は包丁を持って殺そうとしました。それが小1の時です。生きててもだめだからいいやと思って。暴行を受けてるんだから殺そうと思って。何回かビール瓶で頭をぶんなぐってました。」
 田辺さんは三郷市内で小学生の時に3回転校し、その間学校でいじめにもあった。同じ三郷の中学に上がるとき、自分はよくわからないが、普通学級でなく特殊学級へ行くようにされた。そこから荒れ始め、悪い友達とつるむようになった。警察沙汰にもなり、親には迷惑をかけた。




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2019.07.11

梅里雪山の巡礼の道で考えたこと」――[2019年06月12日(水)の模様]。[作成日時 : 2019年07月02日]

 
●滝沢恵子さん(元ムーミンママ)

   

 雑多な人々、雑多な出来事が同時に在ることー世一緒の小さな公共

 もう40年ぐらい昔、北越谷駅のすぐ近くの裏通りを歩いていたら、道端に桐箱の部品がずらっと並べて干してあった。それが何軒かの他家の前の道端まで、延々と続いていた。
 いま橋本画伯宅の周辺は田園風景の中に町工場が点在しているが、それらの前の道路は工場の延長で、よくトラックが荷を積んだり下ろしたりしていて、フォークリフトが行き交っている。
 そんな風景の延長に、東越谷の職場参加ビューロー・世一緒はある。

   


 世一緒の出入り口は平日の10:00-16:00は、できるだけ開けっ放しにしている。
 だから、会議を開いていようが、作業をしていようが、古本や野菜を買いたいというお客、5円コピーを取りに来る人、ハローワークの帰りにふらりと立ち寄る人、ご自由にどうぞと書いてある棚のニュース類をもらいに寄る人や道を尋ねる人など、雑多な人々が出入りする。
 世一緒の中は応接室や事務室といった間仕切りがないので、複数の出来事が同時進行していることが多い。

 そして、6月12日(水)午後は、滝沢恵子さんをゲストに迎えて「梅里雪山巡礼の道で考えた」と題してすいごごカフェのトークが始まったところへ、行田市障害者ネットワークのご一行10名が越谷市障害者地域適応支援事業についての情報収集に見えるといった「解剖台の上でのミシンと雨傘の出会い」があった。


   


 2軒のムーミンハウスの記憶から

 まず今日の進行役で、滝沢さんの紹介者でもあるたそがれ世一緒管理人・樋上さんから、滝沢さんとのなれそめを。

 1987年、この東越谷に重度障害者職業自立生活協会の店・トムテが回転し、樋上さんが店長となり、それまで両親らと暮らしていた武里団地を離れ、この近くで一人暮らしを始めた。その店のお客さんとして滝沢さんのお連れ合いが来るようになり、その縁でお連れ合いが教員として勤める足立区の小学校で教職員向けにバリアフリーについての研修の講師を務めた。

 樋上さんは当時毎週1日だけ、やはりすいごごゲストになっていただいた植田さん宅へ夕方に出かけ、食費と介助料を出して、家族と夕食を共にさせてもらう、いわば通所型の「夕食介助」を受けており、それを「ムーミンハウス」と呼んでいた。やがて、その「ムーミンハウス」の2軒目として、滝沢さん一家4人の夕食に加わらせてもらうようになった。約3年間続いたという。ちなみに、当時、恵子さんは都立の養護学校の教員だった。

 樋上さんが滝沢家を「ムーミンハウス」として通ったのは90年代半ばで、阪神大震災や地下鉄サリン事件のニュースを滝沢家のTVで見た記憶がある。また樋上さんたちわらじの会の当時の若者は、フリースクールりんごの木の子どもたちとソフトボールを時々やったが、そこに滝沢父が子どもと参加した。また、恵子さんが子ども二人と一緒にわらじの会の夏合宿に参加したこともあった。

 滝沢さんは定年後山に登られているが、樋上さんは全国あちこちに旅をしながら山を見るのが好きなので、今日は滝沢さんに山の魅力について話をお聞きできればと言う。 以下、滝沢さんのトーク。

  ▽全文は下記のブログへ。
  
   (山下事務局長のブログへ)

 

 


2019.06.09

菓子問屋で20年働きつづけてきたことも―――[2019年06月05日(水)の模様、2019年6月5日にUP]。

 
●柴田美恵子さん(わらじの会の生活ホーム入居者)

   



 今日5日、職場参加ビューロー世一緒でのすいごごカフェは、始まって以来の25人もの参加。その多くは、わらじの会の生活ホーム、くらしセンターべしみ(通所)、パタパタ手づくり斑(農園・藍染等)の関係者。トークゲストの柴田美恵子さんは同居の親との確執が強まり、7年前から通所、昨秋から生活ホーム入居に至ったが、周りとの衝突やすれちがいなどを重ね、ソフトランディングを手探り中。
 その柴田さんは、幼いころからさまざまな形のてんかん発作をもち、小・中学校でいじめを受けながら通常学級に行き、高校でやっと自分を認めてくれる教員と出会い、その後職安でみつけた職を転々とした後給料は安いが受け止めてくれる菓子問屋で20年働いてきた。親にぶたれながら働き続け、少ないお小遣いの中から当時のわらじの会の障害者たちの店に手作り品を寄付していた彼女の歴史を初めて知って、みんな驚いていた。
 本人も助けを借りながら語り終え、ほっとひといき。

 

(クリックするとfacebookのページへ)









第2期すいごごカフェ&ゲストトーク!

2019.06.20

 2019.04.10

 






2019.01.24


 2019.01.24



  2018.12.20
 すいごごカフェ12/19~1/301時半のゲスト
   特に書いてないのはすべて越谷の世一緒で行います。


 12月19日(水)12:00~Lunch Cafe どっこいしょ
 13:30~すいごごカフェ
 水谷 淳子さん(耳鼻咽喉科開業医)
 「風邪って インフルって」
 「インフルエンザは風邪じゃない」と国を挙げてPRされ、当然のようにワクチンが。でもそもそも風邪ってなに?ワクチンは必要なの?42年間の地域医療体験から。

 26日(水)この日の会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
 菅野 秀義さん(介護人、就労移行利用)
 「都庁は俺が建てた」
 先月のすいごご亀田さんの語りに誘われ、80~90年代の工事現場での労働を語り始めたので、急遽ゲストとしてお願いすることに。介護人としての働きぶりも。

 1月9日(水)
 野村 康晴さん(就労移行利用者)
 「小売業界で働いたら」
 中学までは近所の学校、特支学校高等部を経て、国リハ、通所授産へ。施設外授産の経験から小売業界へ。がんばり精魂尽きて初めて就労支援と出会う。そして…

 16日(水)
 迫田 ベルタ夫妻(アンデスの心)
 「アンデスの心とは」
 ペルーから働きに来日し、そこで出会って結婚。地域にさまざまなつながりをつくり、時々帰っては物産品を仕入れて、地域のお祭りに店を出す人気者の素顔

 21日(月)…水曜ではありませんのでご注意を。会場はせんげん台の移行支援「世一緒」
 倉川 秀明さん(有機農業生産者)
「パプアニューギニア」
 かってJICAから派遣されて住民たちと暮らしたあの地へ、先日再訪した報告を中心に。現在の有機農業生産者人生はアジアの農民たちとの出会いから始まった

 30日(水)
 樋上 秀さん(たそがれ世一緒管理人)
「暮らしやすい街って」
 誰もがくらしやすいまちづくり実行委員会の代表を務め、避難所一泊体験等にも取り組んできた樋上さんにとっての「くらしやすいまち」とは。


 2019.01.24

 
2018.12.19


2018.12.19

  





(2017.11.23)

分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの

  《ブログ》共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す
    http://yellow-room.at.webry.info/201711/article_4.htm


 ▽NPO法人障害者の職場参加をすすめる会が世一緒で今年度通しで開催している「すいごごカフェ」や生活クラブ他と連携の「うんとこしょ―共に活きる介護人養成講座」等の活動と、来年度立ち上げを予定している就労移行支援事業「世一緒」の関連について、2004年のNPO法人設立、翌年から10年間の越谷市障害者就労支援センターの運営受託の経緯と意味にさかのぼってのまとめを「分ける制度を共に活きるために使えるか―すいごごカフェに託すもの」と題して、ブログにアップしました。

 
 
  [出所]山下浩志さんのfacebookより。
   https://www.facebook.com/hoiroshi.yamashita/posts/1460925790642723



(2018.06.07)
▽毎回、13:30~15:00 
 ◇ご興味のある方はぜひどうぞ。なかなか聞けない話が多いですよ。
 コーヒー 100円(カンパ制)


▽「ランチカフェどっこいしょ」[第3水曜日]は300円のカレーライス、13:30~のゲスト・トーク。
 ▽問い合わせは世一緒まで 048-964-1819(TEL・FAX)
             shokuba@deluxe.ocn.ne.jp






 


店内イメージ

世一緒の地図店舗情報

NPO障害者の職場参加をすすめる会

〒344-0023
越谷市東越谷1-1-7 須賀ビル101

TEL.048-964-1819
FAX.048-964-1819













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